商業港としての基礎

658 ~ 659 / 1505ページ
 明治初年の函館が港湾商業都市として、北海道経済にどのような地位を占めていたかを、移出入統計を欠いているため、数的に明らかにすることはできない。しかし、近世には、「松前三湊」といわれ、他国からの交易船が入港できたのは、箱館、福山、江差の3港に限られていたが、(1)松前藩の厳しい流通統制の下に政治的に発展してきた三湊の中で第一の天然の良港であったこと、(2)東海岸も西海岸も商圏とすることができる地理上の優位な位置にあったこと、(3)安政期における箱館開港、幕府の箱館奉行所の設置により経済的基礎ができていたこと、などを考慮すれば、三湊の中で最も発展できる条件を備えていたといえよう。
 また、その経済的蓄積も、決して小さいものではなかった。松前藩は、主食の米はもとより生活物資や生産用具の大部分を自給することができなかったため、松前・蝦夷地で産する鰊・鮭・昆布などの水産物や特産物を交易することによって、それらを手に入れなければならなかったので、海運を通じてはやくから中央市場であった敦賀京都大坂江戸などと結びついた。松前三湊は領国経済の枠をこえる遠隔地交易の北の拠点として繁栄し、他国の大商人の支店、出店も少なくなかったのである。
 明治34年の『英国領事報告』(国立国会図書館蔵)が、「函館の町は重要さを増し、外観も大きく変わっている。毎年拡張されており、格好のよい家々が古くさいものと取換っている。北東方向にむかって拡張される予定になっている港の南部に、立派な海岸通りが作られている。現在、四軒のヨーロッパ風ホテル、イギリス人、フランス人、およびロシア人のホテルがある。また、毎月汽船の連絡が実施されており、中国および南の日本の港から訪問者を誘引している」と記しているように、開拓使設置後も、重要さを増し、活況を呈していた函館の街の様子が知られる。