清商との取引

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 再び「昆布販売顛末」をみると明治8年頃の状況として函館で昆布を購入する清商は5軒ほどしかなくその重なる者として成記号、万順号の2軒をあげている。
 清商と函館の荷主との取引の例を紹介しよう。次の例は明治6年4月に交わされた高田祐吉郎と万順号との厚岸の新昆布の取引に関する約定書である。
 
    為取替約定証書の事
厚岸郡新昆布 四百石目
 税金の儀は貴殿方より上納の約定
 但値段の儀は市中時相庭より弐割下相定申候
右ノ通今般売渡約定仕、則為手金金千両也慥ニ請取申候処実正明白ニ御座候、尤荷物渡方ノ儀ハ来ル十月廿日迄ニ御渡可申上候、若延日ニ相成候ハゝ日数十五日ノ間五分方直段相下ケ可申候、其上相延シ候節ハ前割合を以御取引可申上候、其上荷物不都合ノ節ハ前金ヘ割下ケ相添不残御返金可仕候、向後為念請人連印依而如件
 弐千五百三拾三年
   癸酉  内澗町壱丁目
    四月廿七日売渡主 高田祐吉郎  印
  大黒町壱丁目
請人  柏谷清兵衛  印
  地蔵町三丁目
同断  高野誠兵衛  印
  上大工町壱丁目
口入人 橘清右衛門  印
 止宿外国人
  プリキストン殿内
    万順御店
(北方歴史資料館蔵「高田家文書」)

 
 荷主の高田祐吉郎は高田屋嘉兵衛の系譜の人物で大阪在住であるが、内澗町の高田篤太郎方に寄留して厚岸産の新昆布を10月に渡す内容で前金として1000両受け取っている。この取引を斡旋したのが口入人とある橘清右衛門で保証人に2名をたてているが、柏屋、高野とも海産物を扱う商人である。この契約に限らず他の取引関係の文書をみてもほぼ同様であり、また契約の内容はこの当時行われていた魚肥や海産物の国内向けの商取引と比べてもほぼ同じ内容である。
 しかし鹿島によれば以上のような買い付けの約定を交わしておいても、集荷期になり産地から買い付けた昆布を積んだ船が入港すると商品にクレームを付けて買いたたいたり、あるいは受け渡しを中止して値下げを図るなどの不当な取引をして当初契約より値引きされることもしばしばであったという。こうした証言を一方的に鵜呑みにはできないにしても、買い手市場で清商に有利に商取引が進められたという事情から荷主が買い叩かれた事例が多かったものと思われる。
 広業商会の設立以前の状況として清商から資金の前借りを受けた昆布生産者の場合では、その貸借契約は年利が10~15パーセント前後で、返済は収獲期に現物返済するというとりきめをし、引き取る価格は時価の10~15パーセント引きとして荷物を受け取る。従って当初の利子と低価格での引き取りということで実質的には非常に高利となった。清商の集荷手段は前金によるいわば仕込み的方法と函館における現物買い付けとによったが、取引全体からみると前者より後者の方の比重が高かったという。すなわち例年8月ころ産地から1番昆布と称した新昆布が函館に入荷する。清商はこれを高価に買取り、相場が決定する。そこで競って昆布を扱う商人が函館に輸送する。これは2番昆布と呼ばれたが、清商はそこで買い急ぎはしないで函館市場に充分荷が出回るのを待ち、そして商人が資金繰りに支障を来す時期を見定めて若干の低価をもって買取ったのである(「収獲ノ多寡如何」前掲『饒石叢書』)。さらに彼らは「彼支那商人ハ資本ノ豊饒ナルノミナラズ需用ノ程度運搬ノ便否ヲ考ヘ其本国ト気脈ヲ通ジ一致協力シテ常ニ物価ノ標準ヲ左右スルハ彼商人ガ特有ノ慣性」(『日清貿易北海道重要海産志』)を持っていたからであった。
 こうした清商と邦商の取引の様子をやや後のものとなるが「函館新聞」でみておこう。15年8月18日には入荷した新昆布の一部が仲買商人の吉田庄作へ売り込まれ、吉田はさらに清商への売り込んでいる。また18年8月7日の「新昆布の景況」という記事をみると3場所(三石、幌泉、様似)の新昆布が函館に到着、ちなみにこの時は1100石で初入荷であった。これを仲買一同が競って清商への売り込みをしている。ここで記事は例の通りとしているので、こうした商慣習は相当前からあったと考えられる。清商が各自で相場を建てるという買手市場であることが読みとれる。