一方北海道の輸出海産物を集荷するための函館店は翌6年5月に開業した。用達の名代として赤井善平と安達栄蔵の両名が4月に函館に到着して、函館支庁に5月1日から開業する旨の届けを提出したが、彼らは同時に保任社と運漕社の函館店の取扱も兼ねていた。函館支庁に提出した書類には「清国直輸 開拓使御用達商会」とあり、また清国直輸のために函館港に帆船弘業丸を定繋し、上海直通の便を開設する予定であることを述べている(明治6年「諸局往復留」道文蔵)。
函館店の開業の準備を終えて、次に上海に売り捌き機関を設置することにした。5月に用達田中治郎右衛門と笠野熊吉両名から清国店を開業するので商号を付与されるように願書が提出され、開拓使は「開通号」とするように指示を出した。翌6月に袴塚次郎兵衛ら3名を社中名代として上海に派遣することを決めた(「開公」5740)。彼ら名代は7月に日本を立ったが、10月10日付けで笠野から開拓使にあてて上海フランス公司路46番の地に開通洋行(洋行は号と同義)を開店した旨の通知を提出している(「開公」5750)。
さて、それでは直輸商会の動向はどうであったろうか。函館で開業した6年9月に赤井善平はそれまでに買い付けした昆布や煎海鼠等3000石を函館に碇泊中のイギリス船シーベル号を雇船して上海へ輸出するために願書を函館支庁民事課に提出した。それは直輸商会函館店にとって始めての輸出であった。函館支庁は「何分直輸創業ノ事」であり、かつ「一応其地(編注・東京出張所)ヘ相伺候上差許可申ノ処昆布其他莫大ノ荷物モ相揃商法ノ時機難差延切迫」の事情があるため出帆を許可する決定をした。しかし5年に布達された「不開港場心得方条目」に抵触する可能性もあるため、今後の扱いについて東京出張所に照会した(「開公」5741)。この後支庁と東京との往復があり結局は願書提出してから1か月後に届書で処理するかたちで許可された。また同年12月には木村万平の手船善通丸に商会の昆布と万平の昆布1600石を積み込み上海の開通洋行に向け函館を出帆し、翌7年2月長崎に入港したが、外務省発行の出帆免状を携帯していなかったため、その取り扱いをめぐり開拓使と外務省が数度にわたり協議している。このように当初は手続きの不徹底や規則が関係者に充分浸透していないなど多くの障害があったようである(明治7年「往復綴込」道文蔵)。
また保任社・運漕社・清国直輸商会という3本柱の経営形態で始められたにもかかわらず7年5月に保任社の解散を命じられ、さらに中枢の用達の足並みも揃わず、破産没落するものも出たため直輸商会の手で行われた輸出も僅少にとどまったようである。ちなみに上海の開通洋行に関しては7年1月の『新報節略』に掲載された「開拓使御用達商会ヘ行キ刻昆布ノ輸出ヲ依頼シ見本トシテ同会社枝店上海開通号ヘ送リ…」といった記事がみうけられる程度で詳しい実態は不明である。『大日本各港輸出半年表』によれば函館港における日本商人の手による輸出額は明治7年は4万8520円、8年は2万2042円であった。この時期において他の邦商が輸出に取り組んだかどうかは不明であるが、おそらくこの輸出のほとんどが清国直輸商会の手になったものであろう。開通洋行は10年4月に廃止するが、その母体である直輸商会は、その後北海道商会と衣がえして貿易業から撤退した。