西村貞陽の清国視察

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 明治8年5月開拓使は中判官西村貞陽を清国に派遣した。この派遣は、清国の貿易拡張のための市場調査を目的としたものであったが、前に述べたようにこれ以前にも開拓使は何度か官吏や民間人を派遣しており、これらは、いずれも道内海産物の海外市場の拡大、また在函清商からの商権奪回をめざした政策のあらわれであった。開拓使の首脳の一員である西村をこの時期に派遣させたのには次のような理由があった。
 わが国の貿易は、明治初年以降輸入超過が続き、特に明治7、8年に正貨の海外流出が増加したため、その対策として政府部内で直輸出の増大を図る機運が生じてきた。またイギリスからの340万ポンドの借款の償却手段として政府あるいは政府直轄の貿易商社によって直接外国市場で輸出品を販売し、また正貨を獲得する必要があった。8年11月に大久保内務卿と大隈大蔵卿の建議により大綱が決められ勧業寮(9年5月勧農・勧商の2局となる)中心の直輸出が始められた。開拓使もこれに応じて直輸出振興が北海道の開拓にも直結するとの判断から西村を派遣することにした。当時の函館における昆布輸出をみると明治初年の水準に比較して輸出量は増加しているものの販路拡張に結びつかず、価格が低落し、商況不振、生産地の衰退という状態があって、貿易拡大策は開拓使にとっても急務であった。
 西村は清国視察にあたり笠野熊吉を随行させた。笠野は開拓使の用達として、清国直輸商会の設立人の1人となり、また上海の開通洋行の実質的な運営を担当していた。そこで貿易業に精通しての点を買われて登用された。同じ時期に内務省勧業寮と大蔵省租税寮の官史も清国視察を行っている。西村らは上海、天津と清国国内を視察し、品川忠道上海総領事らと会い、上海の市場の様子等を開き帰国の途についた。
 帰国後の9年3月笠野は、上申書を提出して、政府の保護下で上海に国産売捌所を設けて、上海等で昆布等を売却することで、居留地貿易によって奪われている本来の貿易利益を回復するように提言した。翌4月、西村は笠野の上申をより具体化した「清国商況視察報告書」を黒田長官に復命した(『大隈文書』早稲田大学蔵)。それは上海の開通洋行を拡張して本店とし、貿易業、貨幣交換、荷為替等を取扱わせ、その資本として40万円を大蔵省が貸与し、一方、国内においては、北海道産物の売買、荷為替取扱いのため函館をはじめ東京、大阪、長崎へ支店を置き、税品は一括して販売させ、輸送手段確保のために帆船を購入し、また当初は清国派出の社員には給料等官費から支給する等の内容からなる一大商社構想であった。
 同9年4月、これらの建言をふまえて、大隈大蔵卿は「清国通商拡張ノ義」と題する建議を三条太政大臣にあてて、近年の金貨流出による民間金融の閉塞、それに伴う産業興起の資本欠乏、また外債償却も困難である状況を述べ、その打開策として日清貿易を推進し、そのためには輸出海産物の主産地である北海道の所轄庁、開拓使へも協議するよう提唱した(「旧開拓使会計書類」6625・道文蔵)。伺は同月28日に許可され、海産物輸出は内務省主導で推進されることになり、5月同省に勧商局が新設された。