回漕会社

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 開拓使の付属船による海運経営については以上述べたとおりであるが、この時期中央では政府の保護による諸海運会社が創設されている。その大きな要因は外国海運勢力に対抗するための措置であった。その典型例として回漕会社、郵便蒸気船会社そして三菱会社をあげることができるが、これらの会社はいずれも函館に航路を開いている。また政府とは別に開拓使も独自に用達商人を登用し保護政策のもとに海運手段の創設に力を入れている。これらの動向と函館に関連する海運事情をみてみよう。
 前述したように外国商船の沿岸航路への進出に対して政府としても対抗措置をとらざるをえなかった。それは国内海運の近代化をめざすことでもあった。そのために政府は明治3年2月に通商司の監督のもとに三井組を支援させ東京に半官半民の回漕会社を設立した。東京の廻船問屋、定飛脚問屋など15人が頭取に任命されて、その運営にあたったが、この会社の創立には頭取の1人であった木村万平の主唱を入れた点が多いという(宮本又次「廻漕会社の興廃」『魚澄惣五郎先生古稀記念国史学論叢』)。船舶は幕府から引き継いだ政府保有の汽船を受託したもの、あるいは諸藩からの委託船であり会社独自の船舶はほとんど保有していなかったようである。最初は東京・大阪間に就航し、米穀(主に貢米)輸送を中心として郵便物や一般貨客の輸送にあたった。
 一方開拓使は政府と同じくこの回漕会社に船舶を委託してその運営に当たらせた。3年5月に開拓使は外国商人から汽船を購入しようとしたが取引が成立しなかったため開拓使の用達に購入させた(『維新史料綱要』)。開拓使はこの時に「産物会所規則」を定めて、そのなかで海運事業の取り組みとして「廻漕ノ為蒸気船一艘北海道ニ繋キ此船ハ商社中ニテ買入使用シ、尤規則ヲ立、不平無之様運転セシメ、且民部省廻漕方ヘモ手ヲ組、北海道運漕ノ傍、他所ノ便用ヲモ為シ空ク滞セシム可ラス、但官用タリトモ相当ノ運賃可被差出事」(『布類』上)という方針を示した。その担い手が三井八郎右衛門らの用達で構成する開拓使用達商会であった。翌6月にその総頭取三井八郎右衛門(目代鹿島万平)と同頭取西村七右衛門から開拓使に汽船購入とその運用に関する書類が提出されている。それには開拓使の指示で三井らで構成する開拓使御用達産物取扱方(つまり用達商会を指す)がプロシア商人ユルクンフラルからバーク形の汽船ボルカンを7万8000両で購入し、庚午丸と改称すること。用達名義による購入ではあるが、購入費用を始め運営経費や修繕費など一切の経費が開拓使負担とすること。庚午丸の扱いは回漕会社が担当し運賃収入等は定則によって徴収することなどとなっている(「自午至未雑書拾遺」)。
 同6月用達商会によって購入された庚午丸は回漕会社に委託されて政府の場合と同じく同社が貨客の取扱一切を含めて運用することになった。前述した書類には回漕会社頭取惣代木村万平による「ボルカン蒸気船仕法」が添付されている。それによれば庚午丸は750トンで2500石の貨物と乗客100人を同時に搭載する能力があり、また営業見込みも付されている。月に1度の東京・函館間の往復航海で所要日数は片道5日、貨客運賃の一航海での純益を満載の場合で5000両弱と見積っている。庚午丸の乗組員は船長や士官、機関士は外国人でその他の乗組員は41人であった(「滝屋文書」『青森市史』7)。乗組員の手配も手続きを含めて回漕会社で行ったようである。同時に開拓使は回漕会社の役員らを開拓使用達として任命した。用達に任じられた回漕会社では頭取の1人である定飛脚問屋の村井弥兵衛を函館に派遣し出張所を設置し、三橋喜久造が出張所の業務を担当した(「自午至未雑書拾遺」)。当初は函館の問屋商人蛯子武兵衛を仮出張所としたが、その後は島屋佐右衛門(回漕会社の頭取、定飛脚問屋)の函館出店に移った。『開拓使事業報告』に庚午丸を木村万平に貸与したとしているのは、木村が回漕会社の頭取であったことや、その後木村個人へ貸与したことによったものと思われる。
 開拓使は主にこの庚午丸によって東京・函館間の航路の充実を図ろうとした。また回漕会社も従来の東京・大阪航路のほかにこの開拓使の受託をきっかけとして、東京・函館の航路に自社の船舶を就航させるようになった。明治3年「細大日誌」(道文蔵)には同年7月に庚午丸が東京から始めて函館に入港した記事を載せているほか、青森や新潟便に利用されていること、またその他の回漕会社の貫効丸、清風丸の出入りを伝えている。また三井組の目代で函館に在勤した鹿島万平の「函館紀行」(『地域史研究はこだて』創刊号)にも庚午丸を始め廻漕丸や長鯨丸などの回漕会社の船舶の動向を伝えており、米穀の回漕や北海道の海産物の輸送などに従事したことが分かる。3年10月庚午丸は厚岸で大時化のため海岸へ乗り上げるという事故に遭うが船体の損傷も少なく、函館に回漕後直ちに修復して翌11月には就航している。
 開拓使は付属船の回漕業務を委託して、海運の整備と純然たる利益を上げることを期待したのであろうが、3年12月に回漕会社の頭取一同は通商司に呼び出され頭取を罷免されて会社は解散した。このため開拓使も庚午丸を同社からひきあげた。同社は政府の干渉が多いことや経営陣に人を得ることができず、当面の対抗勢力であった太平洋郵船会社に対して実効がなかったため1年たらずで解散したのである。