開拓使の政策

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 渡島地方では幕末に箱館奉行の政策によって各種産業の育成が試みられていた。函館市中では造船業をはじめ、陶器、煉瓦製造、製紙業、研ぎ石、硯石(以上は尻沢辺もしくは谷地頭)や皮革業(鹿皮)、また近郊では大野の養蚕、機織、藍、七重(現七飯)薬草園、三ツ石(現上磯)での焼酎や澱粉製造などがあげられる。これらの事業は箱館産物会所が担当したものであるが、新産物を開発して、これを各地へ売り捌くことを任務としていた。従って自給化の意図はなかったといえるし、産業振興の観点からいって限定的であったにしても、次の時代に継承されうる内容を持っていたと言うことはできる。
 それでは開拓使に行政体制が変わり、どのような展開をみせるのであろうか。その政策展開に関して開拓使のお雇い外国人ケプロンが提言している。明治4年来日したケプロン(Capron,H.)は1872年1月2日(明治4年11月22日)に東京において黒田次官に報文を提出しているが、そのなかで工業に関して七重官園を将来は札幌に移し集中して運営すること、また「車師鋳物師大工等ノ如キ諸工場ヲ札幌ニ開キ、及ビ粉磨鋸材ノ器械ヲ設クベシ」(「ホラシ、ケプロン初期報文摘要」『新撰北海道史』史料2)として本府である札幌中心で諸工業を興すように提言している。ケプロンの意図は木材輸出と近代工業の導入のために模範工場を官において設置することにあった。他方開拓使は衣類をはじめ日用品を道外からの移入品に依存していた状況では当然のように自給体制の確立という意図が支配的であったし、また産業振興が輸・移出促進のために道内の豊富な資源を商品加工するという加工業の推進を中心に考えた。
 このように札幌中心に展開していった官営の諸工場の設置状況をみると明治4年から13年にかけて、札幌本庁では27か所、函館支庁は9か所、根室支庁は8か所設立されている。札幌本庁管轄の業種は器械、缶詰製造、製網、製紙、醸造など生産財や消費物資など広範に及んでいるが、函館支庁は煉瓦、製革、燧木など、また根室支庁では水産物加工と木挽に限られていた。それでは函館支庁管内の諸工場はどのような運営がなされたのであろうか。特に函館市中に設置されたものを中心にみておこう。