小川らの共同経営は、明治33年、ラッコ・オットセイ猟業の免許と遠洋漁業奨励法による奨励金を受け海獣猟業を開始している。代表者となる小川弥四郎は、明治26年以来、露領沿海州ニコラエフスクに進出し、鮭鱒の買付け事業、漁場経営に当たっていた。しかし、前述のように、露国当局の日本漁業者に対する規制が強化され、31年以後は主に鮭鱒の買付け事業を専業とするようになり、こうした事業規模の縮小を補完するため海獣猟業に着手したようである。
創業時の資金は、共同経営者の出資金6485円と借入金6451円(イギリス商人キングとハウル社から計5160円)で調達し(初年度決算時)、遠洋漁業奨励金1040円の交付を受けている。
猟船は、小川漁業部が従来ニコラエフスク買魚に使用していた帆船西海丸75.52トンを改造し、同船には、捕獲用の西洋形端艇6隻が搭載され、各艇にそれぞれ猟銃2挺、羅針盤、信号ラッパなどが備えられていた。
乗組員は、船舶職員として船長、水夫長各1、水夫4、賄い方1名、漁猟夫として、漁猟長1、銃手5(内2名はスペイン人)、漕手、舵取など12名、計25名が乗組んでいた。これら乗組員は猟期間中のみ雇用され、契約は猟期毎に更新された。このうち船長、水夫長、銃手は、前年度猟期終了直後の10月に契約が結ばれ、その時点で契約金が支払われ、さらに翌年の出猟時に前借金を受けている。その他舵取、水夫などは、猟期直前の3月に雇用されており、契約金を受け取っている。ただ、この契約金は、漁期終了後に、賃金から差引かれることになっていたので、契約金とはいっても、前借金、ないしは誓約金といった性格のものとみられる。
被雇契約及身元引受証 今般貴殿所有猟船西海丸ニ明治四十一年度臘虎膃肭獣猟季中被雇出猟致候ニ付左ノ各項契約致候 一 給料ハ本船出猟前ニアリテハ壱ヶ月ト定メ出猟後ハ捕獲物ニ対シ報酬ヲ受クル約定ナルヲ以テ前記給料ノ半額壱ヶ月ノ割合ニテ満期ノ節可申受事 無給料ノ事 一 春季函館ヲ出港シタル後秋季終猟函館ヘ帰着スル迄ノ間ニ於テ仮令港内ニ碇泊スルコトアルモ凡テ出猟中ト見做シ月給ノ半額ヲ可申受候事 一 自艇ニテ捕獲セシ膃肭獣壱頭ニ臘虎円五十銭 臘虎壱頭ニ付金 円ノ割合ニテ報酬ヲ満期ノ節可申受候事 但シ百頭以上ハ六円五十銭百五十頭以上ハ七円五十銭ノ定メ 一 前掲ノ外他ノ水族ヲ捕獲シタルトキハ相当ニ報酬ヲ可申受事 一 金壱百七拾円也被雇給料並ニ報酬金額ノ内タダ今契約証拠金トシテ正ニ受取申候事 一 金弐百円也本船当函館出帆ノ節借用可致約定 一 前記証拠金並ニ借用金ハ契約満期ノ節給料報酬金ヨリ御差引可被成候若シ不足候節ハ別途金ヲ以テ速ニ返金可致事 一 貴殿ノ承諾ヲ得ズシテ他船ニ乗替ハ又ハ相当ノ理由ナクシテ本契約ヲ履行セサルトキハ既受取タル証拠金並ニ借用金ニ利子相添ヘ返済可致ハ勿論違約金トシテ金 円ヲ即時支払可申事 一 身元引受人ハ総テ本人ノ義務ヲ履行可致約定 一 此件ニ付訴訟ヲ提起スル場合ハ函館区裁判所ヲ以テ合意ノ上管轄ト相定候 右之通リ相違無御座候也 明治四十年拾月拾日 本人 函館区海岸町百十八番地 柳瀬太吉 (銃手) 身元引受人 函館区鶴岡町三十六番地 杉村雄太郎 (船長) 西海丸船主小川弥四郎殿 (「西海丸被雇契約及身元引受証綴」) |
乗組員の賃金は、被雇契約及身元引受証にみられるように、給料(月給)と歩合給からなっているが、船長、水夫長、及び銃手の場合、捕獲頭数に応じた歩合給のみ、舵取、水夫、大工は給料と歩合給、料理人、小使は給料のみが支払われている。このように、猟船乗組員の賃金形態が、主に捕獲頭数に応じた歩合制をとったのは、猟獲量が専ら乗組員、殊に猟場の選定にあたる船長(漁撈長)や獲物を狙撃する銃手の技能、経験、意欲などの個人的資質に拘わり、かつ猟獲成績の向上が、直接乗組員自身の収入の増加にもなったからである(表9-77)。
表9-77 海獣猟船乗組員の給与(明治41年度)
職 名 | 給料(月額) | 歩合その他 |
船 長 水夫長 銃 手 舵 取 水 夫 大 工 料理人 小 使 | 出猟前25円、出猟後なし なし なし 出猟前9~10円 出猟後4円50銭~5円 出猟後6~8円 出猟後18円 出猟後21円 出猟後8円 | ・総猟獲数1頭につき2円、500頭以上1頭につき2円50銭、 700頭以上同3円 ・契約金300円 前貸金200円 ・自艇猟獲数1頭につき5円、100頭以上同5円50銭 契約金100円 前貸金70円 ・自艇猟獲数1頭につき5円50銭、100頭以上同6円50銭、 150頭以上同7円50銭 契約金100円~400円 前貸金100円~200円 ・総猟獲数1頭につき5~6銭 ・契約金40~45円 ・総猟獲数1頭につき10~12銭 ・契約金40~65円 ・総猟獲数1頭につき5銭 ・契約金75円 ・なし ・契約金90円 ・なし ・契約金40円 |
「西海丸・被雇契約身元引受証」(明治41年度)による.
猟場においては、獲艇に銃手1名と水夫2名が分乗し、水夫2名が漕いで、その1名は舵取となり獲物を追跡した。銃手は、動揺する端艇上にあって、遊泳する獲物を海底に沈めることなく狙撃するための熟練と技量が求められたが、銃手の狙撃機会を失することなく舟艇を操る舵取も相当の経験が必要とされた。
本船の船長(漁撈長)は、オットセイの猟場に通じ、かつ船位を実測する能力とその資格が必要であり、海獣業発足当時には外国人船員が雇用されていたようであるが、日本人船員とのトラブルや乗組員に対する統率力に欠けること、奨励金の受給対象となる船舶乗組員の5分の4は日本人に限られたことなどから、奨励法施行後は日本人船長が多くなっている。
西海丸では、創業当初は猟船の総指揮に当たった漁撈長と船長は別人であり、船長には丙種運転士免状を持つ荒川伊右衛門、漁撈長には天木喜六が乗船している。船長荒川の経歴は不明であるが、漁撈の天木(慶応元年1月生)は、愛知県知多郡亀崎村出身で、明治24年と25年には大日本帝国水産会社所属の猟船第三千島丸に水夫として乗船、27年には同社第一千島丸の舵手、翌28、29年は、函館の辻快三の猟船卯の日丸に水夫長兼銃手を勤め、以後水夫長兼銃手として帝国水産会社の順天丸、辻快三の八雲丸に乗組み、30年から岡山県児島郡日比村川田惣次郎所有の日の出丸に1等舵取兼銃手、32年には、先の卯の日丸の舵取兼銃手となり、33年から40年まで西海丸に乗船している。
西海丸の乗船名簿によって乗組員の雇用状況をみると、41年の名簿に記載されている銃手7名のうち3名が34年以来の乗船者で、船長、水夫長などの役付き乗組員は3ないし4年その他一般乗組員は毎年変わっている。また乗組員の出身地(本籍地)をみると、当初は、北海道から北陸、三陸、愛知、九州、四国と全国にわたっているが、41年には北海道、東北地方(宮城、岩手、青森)、及び北陸地方(石川、新潟)の出身者によって占められるようになった。当時の遠洋漁業や漁業出稼ぎに一般的にみられた、漁撈長、あるいは役付漁夫を中心にした地縁、血縁に基づく雇用制度=船頭制度をとるものは、海獣猟業の場合少なかったようである。また、当初乗船していた3名の外人猟手は、40年には2名、41年にその名は消えている。
次に、西海丸の創業状況をみると、明治33、34年には2月上旬ないしは3月上旬に函館港を出帆し、千葉県銚子沖合100マイルから200マイルの海域で操業を始め、オットセイの北上とともに猟場を三陸、北海道襟裳岬沖合に移しここで一旦猟を終え、6月に函館に帰港し、再び函館を出発して今度はカムチャッカ半島沖合からコマンドルスキー諸島近海で操業を続け、10月初旬に函館港に帰港していた。しかし、35年から日本海北部海域や沿海州、北朝鮮沖合にも進出するようになるが、36、37年以後は我が国猟船の増加とともに太平洋日本近海の猟獲頭数は急減し、猟獲の中心は北朝鮮、沿海州沖合の日本海に移り、更にはカムチャッカ半島からコマンドルスキー諸島近海を主猟場とするようになった。
この間の猟獲頭数の推移は、下記のように、34年の572頭を最高に35、36年は日本近海の猟獲の減少で400頭台に落ちている。その後は沿海州やカムチャッカ、コマンドルスキー近海の猟獲の増加で、37年には553頭に挽回したが39年は231頭、40年には503頭に減少している(表9-78)。
表9-78 西海丸の操業状況
年 次 | 航海別 | 出猟期間 | 猟場 | 捕獲 頭数 | 計 |
明治33 明治34 明治35 明治36 明治37 明治38 明治39 明治40 | 第1次杭海 第2次航海 第1次航海 第2次航海 第1次航海 第2次航海 第1次航海 第2次航海 第3次航海 第1次坑海 第2次航海 第3次航海 第1次航海 第2次航海 第1次航海 第2次航海 第3次航海 第1次航海 第2次航海 | 3.9~6.4 6.18~10.12 2.9~5.19 6.3~10.6 2.26~6.9 6.23~9.19 2.18~4.3 4.5~6.25 7.5~10.28 3.4~4.15 4.16~6.19 7.3~9.19 3.4~6.11 7.30~9.7 2.26~3.31 4.5~6.25 7.8~10.29 3.2~6.1 7.15~9.22 | 犬吠崎~金華山~宮古~79恵山~地球岬沖合 コマンドルスキー諸島近海~南カムチャツカ沖合 銚子~金華山~宮古~恵山~浦河沖合 コマンドルスキー諸島近海 磐城~金華山~尻矢崎~浦河~襟裳岬沖合 天売島~樺太西東岸沖合 磐城~金華山~尻矢崎沖合 北朝鮮、沿海州沖合 南カムチャツカ沖合 金華山~三陸~恵山沖合 沿海州沖合 南カムチャツカ沖合 日本海中部海域、樺太西岸沖合 カムチャツカ、北千島沖合 ? ? ? 磐城沖(30)、北日本海(61) コマンドルスキー諸島近海 | 176 228 217 355 279 149 23 268 176 49 234 270 269 265 13 121 114 91 412 | 404 572 428 467 553 534 231 503 |
小川漁業部「帆船西海丸漁業明細書」により作成
表9-79 西海丸の海獣猟業の収支
単位:円 | |||||
事 項 | 明治33年 | 明治34年 | 明治35年 | 明治36年 | 明治37年 |
収入 オットセイ皮売上高 遠洋漁業奨励金 雑収入 合計 | 9,292 1,040 216 10,548 | 13,275 1,050 60 14,385 | 11,984 1,060 13,044 | 13,085 1,060 50 14,195 | 9,080 1,060 28 10,168 |
支出 乗組員給料 〃 食糧 船舶船具消却費 漁艇消却費 猟銃消却費 その他 合計 | 3,470 1,080 1,702 120 235 1,786 8,393 | 5,482 1,148 1,448 108 252 2,163 10,601 | 4,199 1,105 868 208 ? 4,769 11,149 | 5,551 1,179 840 ? ? 2,600 10,170 | 5,964 1,342 ? ? ? 3,367 10,673 |
差引 | 2,155 | 3,784 | 1,895 | 4,025 | -505 |
小川漁業部「西海丸収支決算書」により作成
表9-79に明治33年から37年までの西海丸の収支をあげた。これによると、捕獲数が572頭と最も多い34年の売上高が1万3275円、36年には捕獲数が467頭に減少しているが、価格の上昇で1万3085円と34年並の売上高を上げている。しかし、37年は捕獲数が553頭に増加しているが、売上高は9080円に減少しており、売上高はこれ以後伸び悩みの状態が続いたようである。
一方支出をみると、支出総額は例年1万円~1万1000円前後で、乗組員給料、食料費、船舶猟艇の償却費、及び弾薬、塩などの猟獲費が含まれているが、このうち最も大きいのは乗組員給料で、支出総額の40~55パーセントを占め、これに乗組員の食料費を加えた労務費は、36年には66.1パーセント、37年は68.5パーセントに膨らんでいる。かくして利益は、33年には2155円、36年には4025円を計上しているが、37年は売上高の減少により505円の赤字になっている。ただし、この間毎年奨励金約1000円を受けているから実際の利益はその分少ないことになる(表9-79)。
小川漁業部は、日露戦争開始に伴いニコラエフスクの事業を休止し、酒谷、久保、増谷らと共同して、新造帆船北征丸を仕立て海獣猟業を始めたが、北征丸は38年、松前郡大島沖合でロシアの軍艦によって撃沈され、更に、西海丸も明治41日アラスカ海域で操業中、アメリカ監視艇に拿捕され次のような廃業届けを提出してオットセイ猟業を中止した。
廃業御届 石川県羽咋郡西海村字風無ト九十九番地 当時北海道函館区西浜町拾五番地住居 小川弥四郎 右私儀臘虎膃肭獣猟業ノ免許ヲ受ケ営業罷在候処明治四十一年度ニ於テ猟船西海丸米領アラスカ半島沖合ニ猟業中彼国官憲ノ為メニ密猟船トシテ処分セラレ同時ニ廃業仕リ候就テハ臘虎膃肭獣猟業免許規則第九条ニヨリ直ニ免許返納可仕筈ニ候ヘドモ本船ハ勿論船長以下乗組員壱名モ未ダ帰朝不致従テ免許証ノ有無モ判明不仕候間何卒特別ノ御詮議ヲ以テ廃業ノ御手数相成度別紙免許証写相添ヘ此段及御届候也 明治四十弐年八月三日 右 小川弥四郎 北海道長官河島醇殿(自明治三十三年至三十六年「遠洋漁業ニ関スル願届書類」) |