郷塾(郷学校)

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 明治4(1871)年の文部省設置と翌5年の「学制」の制定により、はじめて全国的規模での統一された教育方針・制度が確立するが、それまでは、基本的には江戸時代の各地方別の不統一な教育体制を踏襲せざるえなかったのが、明治初年の我が国の教育状況であった。
 函館では、開港以来北辺の警備や現地での通訳養成の必要から、奉行所内学問所での一般教育をはじめ、運上会所内に開設された英語稽古所や箱館洋学所、武田斐三郎による諸術調所、それに領事館関係者らによる語学指導など、語学や諸術の専門教育が官吏やその子弟らを対象に行なわれていたが、明治維新・箱館戦争と続く時勢の変化の中で、これら幕末以来の教育機関は指導者も去り、自然消滅の形でなくなっていった。
 2年9月函館に開拓使出張所が置かれ治安が安定してくると、再び函館に在勤する官吏の子弟のための教育機関の必要性が感じられるようになった。しかし3年に提出された「開拓見込大略」(『太政官公文録』国立公文書館蔵)にもあるように、開拓が第一の目的である開拓使にとっては、学校開設は「将来ノ要」でしかなかった。このような状況の中で、この時期全国に盛んに開設されていた郷塾が、民間有志らの手によって函館にも開設され″学校″への橋渡しとなったのである。
 2年福沢諭吉らの助言により東京に北門社新塾を開いた柳田藤吉は、翌3年藤野文蔵らとともに開拓使に請願、会所町にあった官舎を補修し、その年7月新塾の分校「北門社郷塾」を函館に開設した(『柳田藤吉翁経歴談』)。なお『開拓使事業報告』(第4編)では開設時は郷学校と称し、4年1月に郷塾と改称したとなっている。ここでは漢学と英学が教授され、漢学教師兼塾長には開拓大主典鈴木陸次(隆治)が、英学教師には幕末以来函館に在勤し通訳や英学教授として活躍した開拓大主典堀達之助(政徳、長崎県籍)があたった。堀は、仕事の合間をみて1日2時間ずつの教授だったという(谷澤尚一・堀孝彦「堀達之助研究ノート」『名古屋学院大学論集』24-4・25-1)。ほかに漢学教授1名や助教4名もおかれ、堀以外の教師や助教の俸給・校費などはすべて柳田らが支弁する費用でまかなわれた。この郷塾の開設には、官舎の貸与や官吏の派遣を認可するなど、開拓使もかなりの支援をしていたことがうかがわれる。
 郷塾の詳細については不明だが、漢学と英学という教授内容および堀達之助が英語の教授にあたったことなどから、基礎学力のある官吏の子弟らを対象に、幕末の奉行所内学問所や洋学所の形式を継続したものと思われる。明治初年各地に多数開設された郷塾は、幕末からの寺子屋とともに「学制」制定後の小学校の母体となったものが多かったといわれるが、函館の場合はむしろ私塾・洋学塾的なもので、その後の函館の初期中等教育の母体となったものである。
 4年の「私事願伺留」(道文蔵)に滞函中の鑑札交付願や滞函届が綴られており、函館滞留理由の一端を知ることができるが、これを見ると、郷塾が開設されていたこの時期、東北諸藩から「洋学修業」に来函していた人々が目に付く。「私事願伺留」から人名や出身・身分を拾ったのが表10-1である。特に仙台藩(のち宮城県)士族が多いのは、藩校養賢堂の廃校や宗教関係(第11章参照)によるものと思われるが、この他にも八戸や盛岡などからも来ており、かなりの数の東北諸藩の藩士が「洋学修業」に函館に来ていたことが想像される。
 
 表10-1 滞留願を出した人々
出 願 日
滞函理由
出 身
身分
氏  名
2月25日
 
3月26日
4月27日
 
4月27日
 
 
 
6月8日
 
 
 
 
 
 
 
9月3日
10月8日 
魯語稽古
 
洋学修業
洋学修業

洋学修業



洋学修業







洋学修業
洋学修業
仙台藩

仙台藩
仙台藩

仙台藩



仙台藩







八戸県
盛岡県
 
 
士族
士族

士族



士族







 
士族
津田徳之助
柳川一郎
伊藤賢三郎
大立目謙五
小松韜蔵
真山温治
影田孫一郎
笹川定吉
小野虎太郎
今田彦三郎
石森武治
澤地祥三郎
高屋仲
柴田文治
牧野守之佐
阿部章次郎
桶谷孫太郎
鬼柳直路
川守田蔵治

 明治4年「私事願伺留」より作成