沿岸型開教と内陸型開教

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 一方、他の55か寺ほどの寺院は悉く、明治政府-開拓使という上からの開拓政策や、それに呼応した中央教団の開教実践を受けて建立されたものであり、これは前の沿岸部に比して、内陸部に集中している。とすれば、近代における基本的な開教形態として、先発地=和人地の寺院による沿岸型開教と、中央政府=中央教団による上からの、ないしは外からの内陸型開教の2形態が存したことになる。
 
 表11-4 近世前・後期の本末関係

 
 
 
 
 
宗 派
本 寺
末寺数
真言宗阿吽寺
6
(2)
曹洞宗法幢寺
 
法源寺
高龍寺 
正覚院
寿養寺
龍雲寺
6
(2)
4
4
5
1
1
浄土宗光善寺
正行寺
称名寺 
阿弥陀寺
上国寺
9
6
5
2
1
浄土真宗専念寺
 
順正寺
東本願寺
10
(1)
2
1
日蓮宗松前法華寺
京都本満寺
2
1

 
 
 
 
 
宗 派
本 寺
末寺数
曹洞宗高龍寺 
法幢寺
法源寺
正覚院
龍雲院
寿養寺
7
3
3
3
2
1
浄土宗善光寺
称名寺
13
3
浄土真宗浄玄寺 
専念寺
智恵光寺
9
2
2
日蓮宗実行寺 
松前法華寺
5
1

 『松前町史』通説編1による
 ( )内は中世寺院数をあらわす
 
 そうしてみれば、函館の高龍寺実行寺称名寺などは、沿岸型開教の中核的位置を占めていたことになる。これら函館の有力寺院が、いかなるプロセスを経ながら、その教線拡張を果たしてきたかを、表11-4によって確認してみよう。同表の末寺形成数を一つのバロメーターにして、寺院教線を測れば、近世前期にあっては松前城下寺院の末寺数は35か寺、それに対して函館のそれは10か寺であったが、近世後期に至ると、その関係は函館が24か寺、松前が19か寺と逆転する。そして近代に及んでは、前掲したように、函館の寺院が14か寺の末寺を形成したのに対し、松前はその半分の7か寺、札幌の場合ですら8か寺であったのであるから、この明治期、いかに函館の寺院の勢力が旺盛であったかが察せられよう。
 寺院による開教形態として大別して、沿岸型と内陸型の2つがあったことを先に指摘したが、2つの形態に共通して近代の人々が求めたものは、「根室地方ハ明治六年開法庵(曹洞宗)設立ニ至ル迄一ヶ寺ナク、又一人ノ僧ナシ。故ニ同朋死スルモ葬ムルニ地ナク祭ルニ人ナク、古来幽冥ニ迷フモノ其数幾百千ナルヲ知ラサルナリ。壹啻是レノミナランヤ。甚シキニ至テハ死体ヲ海ニ投スルノ止コトヲ得サルニ及ヘリ」、あるいは「信徒等葬祭ニ差閊ヲ生シ且ツ永住安堵ノ念慮薄キヲ患フ」(『北海道寺院沿革誌』)という厳しい現実に直面した時に心から涌き出た寺院造立であった。北海道の近代の人々は、不慮のことがあった場合でも、それを祭る葬儀にこと欠き、永住安堵の思いも揺らぐ日々を送られなければならなかったのであり、そうした人間として全く不自由な生活を余儀なくされて初めて、祖霊と自らの霊の交流の場たる寺院を希求するようになったのである。近代北海道の人々の自然の発露として、前の2形態の寺院開教も生まれ出たことは、言うまでもない。
 前掲(北海道における近代寺院の造立と函館)の91か寺もの近代寺院が明治期に建立された事実一点からしても、寺院が北海道開拓と陰に陽に関連し合っていることは予測されるが、果たして、真に寺院の内側にそうした開拓とかみ合う論理なり、エネルギーなりが内蔵されていたのであろうか。その辺のことを少し検証してみよう。