明治初年の神仏分離以後、神道界とともに、体制宗教の一翼として教導職布教や北海道開拓ないしは開教に余念のなかった函館仏教界も、明治12年12月6日、堀江町より出火した思いも寄らぬ大火に巻き込まれ、実行寺・東本願寺(浄玄寺)・称名寺などの名刹が一瞬のうちに灰燼に帰してしまった。
開港後、一時ロシア領事館の開設までの仮止宿所となったりしていた日蓮宗の実行寺は、その大火の直後、廃寺か再建かという重大な岐路に立たされていた。明治14年2月14日付の「函館新聞」には、実行寺住職の松尾日隆が日蓮宗の教導取締を「何故にや今度該務を差免されたり」と報じている。そしてこうした事態を受けて、実行寺の450名もの檀徒が実行寺の再建か廃寺かを賭けて日蓮宗大教院管長に請願書を提出したのは、それから約1か月半後の4月2日のことであった。
彼らの請願の骨子は、「説教所へ寺号ヲ公称セシムルハ六名ノ過チヲ飾ルニ過ギズ、実行寺ニ職ヲ復セザレバ四百五十名ノ者信ズル所ノ宗教ヲ失ハン」、「余等四百余名方向ヲ転セバ数百年伝来セシ実行寺ハ一朝ニシテ廃寺トナラン」というように、表明上は松尾日隆の教導取締の復職にあった。しかし、かれらの請願の中核となっていたのは、6名の者が画策してやまない「説教所の公称」問題の中にあった。つまり、実行寺と袂を分かつ6人組が明治12年の実行寺の焼失を機に、亀若町に日蓮宗説教所を設置し、これを拠点に一気に宗勢の拡張を図ろうとしていたのである。450名の実行寺檀徒にとって、その反乱的行為は当然、黙止し難いものであった。
6人組によるこの画策も、実は大火以前から芽生えていた。すなわち、明治8年中央から派遣されて来た津川日済と内藤日定なる者が地元の大野某と語らい、実行寺の松尾日隆を追放せんとしていたのである。してみれば、実行寺と説教所との反目は、中央と地元における教導職布教をめぐる矛盾に端を発し、それが明治12年の大火を契機にして噴出した一大騒動と見なしていいだろう。教導職布教をめぐる不祥事については、前にも少しく触れたが、このような中央と地方、あるいは本寺と末寺との間の軋轢は、宗派の別を超えてかなり日常茶飯事のように存在していたに相違ない。
廃寺か再建かで揺れた実行寺の騒動も、檀信徒の熱い請願が功を奏し、松尾日隆の復権も叶い、また仮堂建設中に、道路改正が行われて、現在地に替え地が下付されて移動が完了したのは明治14年のことであった。そして同年6月6日と7日の両日、松尾が施主となって旧幕府脱走軍戦死者の13回忌大法会を、谷地頭碧血碑前で執行。同17年に、身延山久遠寺と本末関係を結ぶに至り、以後順調に北海道内にその宗勢を拡げていった。
幕末の安政年間、箱館奉行交代の際の仮本陣やイギリス領事館の開設までの仮止宿所にも当てられていた浄土宗称名寺も、明治12年の大火に見舞われ、現在地に移転したのは実行寺と同様、道路改正による替え地下付後の明治14年のことであった。