東本顧寺の移転

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 東本願寺=函館別院は、明治初年にはアメリカの仮領事館に当てられたのみならず、同9年の天皇行幸に際しては行在所にもなっていた。それゆえ、12年の大火後の移転先をめぐっては、前の実行寺とはまた別の次元の難題を背負うこととなった。その辺の事情を「函館新聞」は、明治13年4月26日~5月10日にかけて、社長山本忠礼の「僧徒ノ悪弊」とそれに対する同寺輪番の岡崎元肇の「僧徒ノ悪弊論ヲ駁ス」のコラムを設けて詳細に報じている。要するところ、移転先をめぐって山本は、天皇の行在所に余りこだわるよりも市街中央を避けた所の方が火災の延焼などを免れるためにも得策であると論じたのに対し、それを受けた岡崎は、同寺が天皇の行在所であったことの意味を考慮しながら、寺院が市街に存在してはならぬ理由はどこにも存在しないことを種々、例証を挙げつつ反論したのである。

大火後に再建された東本願寺 「函館実地明細絵図」より

 
 この移転論争は結局、道路改正により、明治14年に大谷光勝の私有地である現在地に移転することで決着したのであるから、両者引分けの形となって終結した。以後、再建に着手し、本堂が完成したのは明治23年のこと。
 「函館新聞」によれば、その予算は総額2万5000円(明治21年6月17日付)であったというが、当時の檀信徒の再建に向けてのエネルギーは相当なもので、例えば、彼らは東本願寺信徒の1人として、「亦成講社」なる講社に属し、「本山ノ維持ト本宗教義ノ拡張ヲ図ル」べく、一糸乱れぬ団結の力を出し合っていた。そうした信徒としての結束力に支えられてか、明治14年の移転に際しての喜捨金は、14年の1年だけでも6846円余も寄せられていた。明治12年当時の檀家数が7500という、市中寺院の最右翼に位置していることから考えても、その信徒の結集力と寺院側の集金力には瞠目するものがある(『亦成講社規則』・『亦成講社喜捨金収納簿』東別院函館支院蔵)。
 いっぽう、明治12年の大火には直接見舞われなかったものの、本願寺派函館別院=願乗寺も災火には悩まされ続けた。幕末に堀川乗経による積極的な開教・開拓の波に乗って飛躍的に宗勢を拡大した同寺も、明治初年の箱館戦争の兵火には難を免れえずに焼失。本堂の完成をみたのは同12年のことであったが、同32年と同40年にも大火に遭って烏有に帰している。
 その点、曹洞宗高龍寺だけは、市中の名刹として比較的、大火から免れることができた。同寺がまだ弁天町にあった明治2年、旧幕府脱走軍の衛戌病院に当てられていたため戦火を被って焼失したものの、現在地に同12年に移転してからは、同21年の自火による焼失を除けば火災の難を蒙っていない。ちなみに、12年の移転に際しては開拓使から「移転費用」として4392円余が下付されていた(「高龍寺移転一件」)。
 そうした中で、明治40年の大火によって、大谷派函館別院・本願寺派函館別院・称名寺そして実行寺が悉く再焼失したことは、何とも不運であった。こうしてみれば、函館における近代寺院は、宗教施設的にみるなら、兵火や火災という全くマイナスの要因を背景にしながら、皮肉にも整備され充実していったといえようか。