箱館開港と売女渡世の公認

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 安政4(1857)年、外国船への食糧薪水供給港として開港以後初めての居留外国人としてアメリカ貿易事務官ライスが来箱した。彼は身の回りの世話をする女性の世話を箱館奉行に依頼、奉行は「見込ノ通可被取計候事」という老中の裁可を得て、翌5年1月ライスの元へたまという女性を引き渡した(「村垣淡路守公務日記」『幕外』付録、『幕外』19-6)。ライスの前例を作った以上、今後居留外国人が女性を懇望しその世話を奉行へ依頼してくることは大いに考えられることで、箱館奉行としてはいつでもその要望に対応できるような方法を考えておかなければならなかった。そこで箱館奉行は、年季奉公に抱えた娘たちを売女や女芸者に仕立て、彼女らに遊女屋同様の所業をさせていた茶屋営業者に、遊女屋の営業を認可し、彼らから提出されていた3件の増株願いの件も許可して、その代償に指図しだいでいつでも外国人へも女性を提供するようにと、安政5年1月23日、次のような「申渡」をした。
 
           申渡
町年寄共          
今般当港おいて売女渡世差免に付、是迄茶屋渡世の者へ改テ右渡世申渡間其旨存すべし
茶屋渡世ノ者          
一同             
其方共儀、是迄茶屋渡世致し来る処、今般改て売女渡世申渡し、且願の通増株三軒差許す間、差図次第異国人へも無差支差出す様致すべし
(『幕外』一九-六九)

 
 こうして箱館にも安政5年1月、奉行の命令で売女を公認された24軒の遊女屋異人休息所が誕生し、公娼(公に売女が認可された遊女)制度・集娼制度(公許地に認可された遊女屋が集まること)が成立したのである。なお箱館奉行の予想通り、この後何件か外国人に″婦人懇望″を申し立てられ、異人休息所へ案内している様子が『村垣淡路守公務日記』の中に見受けられる。