蓬莱町遊里の出現

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 明治維新による旧体制の崩壊という政治の大きな流れの中でもさほど影響を受けること無く続いていた函館の遊里だったが、明治4(1871)年その遊里の地図が塗り替えられてしまった。この頃の遊里山ノ上町と新築島の2か所だったが、4年9月の″切り店火事″により全盛を極めていた山ノ上町遊里は全滅状態に陥ってしまったのである。この頃になると山ノ上町付近は人家も増加し市街の中心となってきていたので、この火事を契機に遊郭を移転することになり、山ノ上遊郭の遊女屋・引手茶屋には住所替えが命じられた(明治5年「函館市街ノ内蓬莱町地所割渡願書」道文蔵、以下「蓬莱町地所割渡願書」とする)。移転先は″恵比須町裏手″つまり幕末に株仲間が新築島に購入した土地の代替地として与えられていた「大工町地続大森浜通」の約2万余坪の地だった。この地は既に元治2(1865)年に周りに堀が通され簡単な造成は終わっていた(前掲「地蔵町築地御用留」)が、この命令に対し遊女屋・引手茶屋一同は「手薄ノ私共至急ノ家作モ行届不申、殊ニ大勢ノ抱遊女召仕トモニ御座候得バ、休業仕候テハ此上ノ難渋申斗無御座候…私共所持地ヘ仮宅取建候テ当分ノ内渡世仕度奉存候、尤来申年六、七月迄ノ間ニ、右替地ヘ家宅取建候様可仕」(前掲「蓬莱町地所割渡願書」)と移転・再築に1年ほどの猶予を出願したが認められず、「替地」へ「仮宅同様ノ家作」の店を建て営業せざる得ないことになった。9月末日にはまず12、3軒の遊女屋・引手茶屋が移転を申し出た。こうして翌10月には「替地」を遊里にふさわしく「蓬莱町」と名付け(『開事』)、本格的に遊郭の移転が始まったのである。
 この移転に際し、函館支庁は従来遊女屋株25軒、引手茶屋株25軒と定め、貸株・借株・休株などの区別があったものを改正し、それぞれ替地へ普請し早々に営業をはじめた者へは新規営業を認めるとした。そのため借株の者の新規営業が続出、11月には引手茶屋惣代から「類焼已前拾九軒ニテ漸々渡世仕候儀ノ処…既ニ弐拾五軒ニ相成、此上増加いたし候テハ相互渡世出来兼」るので「盛業成行候迄」新規認可を見合わせて欲しいという願書が出されたほどである(前掲「蓬莱町地所割渡願書」)。また「手薄」な遊女屋たちではあったが、「替地初発ノ家作ニ付見苦敷建家モ致兼」(同前)ると資金の貸与を願い出、その年の暮れには刑法係から引手茶屋6軒、遊女屋1軒が1200円を(明治4年「函館支庁日誌」道文蔵)、翌5年には遊女屋一同連名で貸付会所から1万5000円の貸し付けを受ける(「会計関係書類」道文蔵)などして資金を工面、さらに解体された五稜郭の木材も融通してもらうなど(『開事』)、翌5年春にかけ蓬莱町遊里の造営は急ピッチで行われていった。こうして函館の東の町はずれにこつ然と現れたのが函館の東郭、蓬莱町遊郭だった。
 なお明治5年の「函館市街ノ内蓬莱町地所割渡願書」によると、遊郭の移転に伴い遊女屋、引手茶屋を得意先としていた各種業者も移転願いを出している。願いを出しているのは髪結い・鮨屋・荒物屋・五十集・仕立て屋・塗り師・風呂屋・三味線張り替え・青物屋・表具師・小商い・小間物屋・豆腐屋・手踊り指南・左官・揚げ物屋・搗入(つきいれ)屋など多種多様で、遊郭を中心に一つの生活の場が形成されていたことがわかる。