サイベ沢貝塚人骨発見

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 サイベ沢遺跡発掘調査を一週間後にひかえた同年四月十六日、函館考古学会が発足した。発掘調査の記録は見当らないが、函館図書館に「サイベ沢貝塚人骨発掘」という記録写真があり、これで見ると『史前学雑誌』に「擇捉島東海岸の骨牙器」や「北海道石器時代遺物発見地名表」などを発表した谷敬一や、特にサイベ沢遺跡の資料を収集した阿部龍吾らも参加しており、おそらくこの調査は同会が企画した最初の発掘調査であったと思われる。
 人骨は台地の中央部を南北に走る農道から少し西に入った沢のがけで、地表から約四メートル程の地中にある貝塚から出土した。サイベ沢は桔梗台地の北側におよそ三〇メートル幅で東から西に切れ込んだ沢で、台地との比高は七~八メートルである。沢は水田に利用され、南側に二メートル程の川が流れているが、この川が台地を削り、川底などに遺物が散乱している。遺物包含層は主にサイベ沢の南側にあって、がけ際に厚く堆積する。発掘された人骨は頭蓋骨が無く、脊椎骨、肋骨、上腕骨、骨盤が同一地点で出土したが、出土状態を示す写真から判断して屈葬と考えられる。この人骨は縄文人の人種問題のかぎを握る資料であったが、現在は所在不明である。
 サイベ沢遺跡の遺物は、土器が円筒形の大形のもので、石器は石枕と呼ぶ円柱状石器や、石槍、石小刀など種類も多く、研究者が相次いで遺跡を訪れるようになった。この遺跡は昭和八年の『原始文化聚英』、昭和十年の『函館市誌』、河野広道の『北海道石器時代概要』=ドルメン四-六、名取武光の『北海道の土器』=人類学・先史学講座一〇、などに円筒土器の代表的遺跡として紹介されるようになった。
 この円筒形土器を初めに発表したのは長谷部言人であった。東北大学医学部教授であった長谷部は山内清男らと青森県南部町相内(あいない)のオセドウ貝塚や八戸市是川中居貝塚を発掘し、昭和二年『人類学雑誌』第四十二巻第一号に「円筒土器文化」として発表し、これが北海道南部の室蘭市、函館市、上磯郡茂別などにもあることを指摘し、相内で発見の人骨について「石器時代人と共通する点があり、アイヌ人にも似ているが、アイヌ人とは異なる」としている。このころ京都大学から東北大学に来て、日本古代史と考古学の講義をしていた喜田貞吉は、石器時代人はアイヌ人であると考えていたし、文献などの「蝦夷すなわちアイヌ論」と相まって論議が交されたが、歴史学者、人類学者、考古学者間において、石器時代人、蝦夷、エミシの民族論について共通の見解は得られなかった。喜田は東北地方や北海道各地の遺跡を歩いたので、米村喜男衛、落合計策など、北海道において喜田の学問的影響を受けた人は少なくない。喜田の講義を引継いだ伊東信雄教授や、縄文式土器を体系付けた山内清男が函館を始め道内各地を訪れたのもこのころである。