蝦夷蜂起

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 『新羅之記録』によれば康正二(一四五六)年志苔の鍛冶屋村アイヌ人が和人の鍛冶屋に小刀(マキリ)を作らせたが、その小刀の切れ味や価格の問題から口論となり、アイヌ人が殺害されるという事件が発生した。この事件がきっかけとなり、かねて和人勢力の侵略に不満をもつアイヌ人は戦いを起し、東は鵡川から西は余市付近まで進出していた和人勢力を追い払い、翌長禄元(一四五七)年酋長コシャマイン(出身地不詳)の率いるアイヌ人が大挙して和人の館におしよせ、当時道南の海岸線にあった十二館のうち、十館を次々に陥れ、和人側はかろうじて茂別(現上磯町字茂辺地)と花沢(上ノ国町)の二館を残すのみとなったが、この時花沢館にいた武田信広がようやくコシャマイン父子を射殺し、和人地を平定するというような状況であった。
 なお『新羅之記録』に記されている館は十二館であるが、前に述べたとおりこれより古い時代に属すると考えられる亀田館や戸井館については記されておらず、戦いに直接関係がないため(戦いの時は滅びていた?)か、また別の何らかの理由により記されなかったものと考えられる。