亀田番所の主な仕事は(1)和人地と蝦夷地の出入者を検査し、税を徴すること、(2)入港する商船から税を徴収することなどが、最初のころの業務であったらしい。
その後亀田地域の発展と松前藩の行政体制の確立に伴い、時期ははっきりしないが亀田奉行といわれるようになり、その業務とするところは知内以東亀田に至る間の一般行政及び出入船の検査と徴税を主なものとするようになった。
更に和人地の拡大に伴い、亀田奉行の行政地域も広められ、最初は知内以東、亀田までであったものが、汐首、戸井そして六か場所全域に広められて行ったようである。
年代的にやや下るが安永八(一七七九)年茅部地方の漁民五百人余が昆布の一手買入反対と漁船の役金免除を要求して一揆を起こし、亀田番所〔寛保元(一七四一)年亀田番所は箱館に移転〕の工藤平右衛門奉行に強訴したが、これなどは亀田奉行の行政範囲がここまで及んでいたからだと考える。
次に亀田奉行に出された覚書及び法令によってその業務内容の概略を知る手がかりとする。(『松前福山諸掟』北海道大学附属図書館北方史料室所蔵による。)