亀田奉行の置かれた初めのころは、本州船、蝦夷地船の出入が多く、また昆布漁をはじめとする漁業の盛んな春から秋ごろまでの間、奉行は福山(松前)から来村し政務を行い、それ以外の時期は代官または下代にその仕事をまかせていた。
亀田番所が箱館に移ってからの奉行の勤務状況について『榊家譜附録』(北大図書館蔵)は次のように記している。「(五代榊多良右衛門)此時迄ハ亀田代官春三月来ッて秋松前に帰る故に十月より二月迄ハ大小の政事ハ悉下代に委任し依レ之吾宅に玄関を構へ前にハ御幕並三ッ道具を建置今の奉行館の如し」
なお寛政三(一七九一)年の『東蝦夷道中記』によれば、浅利利兵衛は勤番をつとめていたが、「里人はこれを奉行という」とあり、このころ奉行のほかに勤番と呼ばれていたことが認められている。また亀田奉行は前松前藩時代の終り、寛政十二(一八〇〇)年に廃止され、その後松前藩が蝦夷地を再支配することになった時、箱館に奉行所が設置され、箱館奉行と称されたが、人々の中にはこれを旧例にならい亀田奉行と呼ぶ者もあった。