函館空港遺跡群において、縄文時代晩期および続縄文時代の遺跡は少なく、中でも集落跡についてはほとんど確認されていない状況にある。この後、擦文時代の到来とともに海岸沿いの台地の上には、再び集落とみられる遺跡が登場するようになる。最初に確認されたのは、昭和九(一九三四)年に馬場脩が黒岩付近の台地(ムジナ川付近)で行った発掘調査である(昭和九年七月八日付「函新」)。この時には、弥生式土器土師器、祝部土器(須恵器)が出土し、火災に遭ったカマドのある竪穴住居址が四基発見されている。また、平成七(一九九五)年度の石倉貝塚においても、同様の竪穴住居跡が一基確認されている。
さらには、函館空港第1・2地点や汐泊遺跡などにも集落が形成されていた可能性がある。この他には、汐泊川東側の台地上の鶴野2遺跡などにも同様な住居跡の存在がみられる。
なお、これらほとんどの遺跡から出土する土器は、いずれも北海道の擦文土器とは異なり、本州地方に一般的に広がっていた土師式土器が主だったことが特徴である。これはおそらく、本州方面からの文化の強い影響があったためと思われるが、あるいはこれらの人びとが渡航して移り住んだ結果であったことも考えられる。