コシャマインの戦いの戦端が志海苔で開かれたことは、重大である。『新羅之記録』が伝えるように、その当時、「志濃里の鍛冶屋村に家数百」もあり、その鍛冶屋村にアイヌの乙孩が来て、鍛冶に劘刀(マキリ)を打たせ、その劘刀の「善悪・価」をめぐって抗争が始まった。とすれば、この鉄をめぐる対立がコシャマインの戦いの直接的な引き金になったことになる。
劘刀の「善悪」と価格について乙孩と鍛冶とが対立したということは、アイヌの乙孩が鉄に対して一定の知識・評価能力を持っていることを意味している。先住民のアイヌにとって、鉄とは何であったのか、また「志濃里の鍛冶屋村に家数百有」とは、どんな意味があるのか。これは余りにも謎に包まれた問題であるが、中世の志海苔にとっては、すこぶる重大な関心事である。
近年の研究成果に依り、その辺の事情を少しかいま見ることにしよう。
岡田康博によれば、古代の製鋼法には、直接製鋼法と間接製鋼法の二つがあり、この製鋼法の製鉄遺跡として、昭和六十二年から三年の調査により、青森県鰺ヶ沢の「杢(もく)沢遺跡」が発見されたという(「鉄」『考古学の世界』一)。そこから、製鉄炉跡三四基、鍛冶場跡三基などの鉄生産関連施設のほかに、工人たちの竪穴住居跡も検出され、それは一〇世紀後半から一一世紀初頭のものであった。ここでは、鋼が生産され、鍛冶も行われていたのであるが、鉄器の出土点数はごく少量である。とすれば、この製鉄遺跡では、鉄器製造はおこなわれず、半製品の棒状や鍛造素材までの生産工程にとどまっていたのかもしれない。
いずれにせよ、この北奥地域で、一〇世紀から一一世紀に大量の鉄生産がおこなわれたことは、中世蝦夷島の鉄事情にも相当な影響を与えたことは間違いない。
蝦夷島南部から北奥地域は、八世紀から一三世紀の時代、「擦文文化」という同一の文化圏に属していたことを考慮すれば、杢沢で鉄製造がおこなわれていた一〇世紀から一一世紀には、その鉄をも含めた経済・文化交流が展開していたことになる。それゆえ文化系譜上でいえば、中世アイヌは、その母胎たる擦文文化の時代に、鉄製造に何らかの形で、関係を持っていたとみてよい。
福田豊彦によれば、「擦文文化からアイヌ文化への転換は、外部から蝦夷地に持ち込まれた鉄鍋などの鉄製品によるところが大きい-その一事例として、十二世紀の南部の鉄製造を想定-」という。中世アイヌがその先祖の段階の擦文時代に鉄製造にかかわり、一定の技術を修得していたことは、十分考えられることである。その意味で、福田の次の問題提起は、北海道の中世ないしは志海苔の鉄を考える上でも非常に刺激的であり、有益である。
(前略)北海道に渡った和人たちも同様に、蝦夷人から鉄の生産と再生産の技術を奪い、鉄は製品のみを与える政策をとろうとしたのではなかろうか。コシャマインの蜂起はその軋轢として始まった、という推測も可能であろう。擦文期にすでに鍛冶技術を持っていた蝦夷人からそれを取りあげることは、短期間には行えなかったとしても、鉄や鋼の生産技術を通じて他民族を支配し従属させようとする政策がとられたとしたら、近世アイヌの姿から遡って中世アイヌを探ろうとする視角は、その間の「政治」が欠落しているという点でも、間違いを犯すことになる。
(「鉄を中心にみた北方世界」『蝦夷の世界と北方交易』)
鉄をめぐる問題は、支配と被支配のまさに「政治」問題の大きな分岐点であるとするなら、乙孩と鍛冶と劘刀をめぐる「善悪」「価格」とは、まさにその象徴的な対立構図ではないか。推測をたくましくするなら、乙孩は先祖が擦文時代に修得していた伝説の鍛冶技術を拠りどころにして、和人「渡党」の鍛冶工と、歴史的な鉄をめぐって政治的駆け引きを演じたのである。
「志濃里の鍛冶屋村に家数百有り」の中の鍛冶工には、あるいは、先祖伝来の鍛冶技術をもとに鉄を打つ中世アイヌが一部含まれていたのかも知れない。中世の時代は、先住民のアイヌが、まだまだ民族的マジョリティ(民族的優越)を誇っていた時代である。