光広の大館移住

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 永正十年のアイヌ蜂起である「大館合戦」の翌十一(一五一四)年三月十三日、蠣崎光広は長男義広とともに「上之国を改め、小船百八十余艘を乗り列ね来りて相原季胤の松前の大館に移住」(『新羅之記録』)した。機敏な光広は、この上ノ国から大館への移住を秋田檜山の安藤氏に、「此旨を両度檜山に注進す」(同前)と二度にわたって報告している。この報告の真意が、自ら就いた「松前守護職」に対する公認と、自ら安藤氏の代官を任じ、蝦夷島における実質的な現地支配者たることの承認にあったことは、見易い道理である。
 度重なる報告を受けた檜山の安藤尋季も、ついに「狄の嶋を良広に預け賜ひ、宜しく国内を守護すべきの由判形を賜ひ畢んぬ」(同前)と、光広の長男・義広(良広)に蝦夷島の安藤氏の代官としての領有を認めた。
 蝦夷島全島の支配をゆだねられた蠣崎氏は、その具体的な施策の第一歩として、「諸州より来る商船旅人をして年俸を出さしめ、過半を檜山に上る」(同前)というように、商船や旅人からの「年俸」(役金)を徴収し、その半分を秋田檜山の安藤氏に上納する一種の徴税権の行使を実施した。この施策に蝦夷島の現地支配者として君臨しようとする蠣崎氏の並み並みならぬ意欲を看取することは、そう困難なことではない。
 永正十一年の大館移住と商船旅人への徴税権の行使をてこに、安藤氏の代官・蠣崎氏はいよいよ蝦夷島の現地支配者として君臨していく。その最も現実的な典型例が、旧館主を家臣とする「被官化」である。
 志海苔の小林氏も当然大館に移住した。それは三代良治のときの永正十一年である。その際、「先祖ノ墳墓ト共ニ宇賀ノ浦ノ如光山法華寺ヲ遷シテ松前馬形ノ台ニ建」(『履歴書』)てたという。これは小林氏が前に石崎地区に「宗教ゾーン」構想を立てて、日蓮宗の「経石庵」を氏寺化ないしは共同墓地化したことと連結する営みである。ここに、銭亀沢も、蠣崎政権のもと、しばし空白の時代に入る。この間、領主不在のまま庶民「渡党」の中世の中に、近世の具体的な村落形成を準備することとなる。