敷地割にみる村落社会と生業

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 短冊状地割にみられる均等な間口規模は、所有者の漁業規模に差の少ないことを表している。すなわち志苔村・銭亀沢村字本村・石崎村の村内社会は横並びの家族経営が主体で、権利関係を細かく分けていたと考えられる。この地域で現在でもみられる、細長い短冊状地割りに、山側に寄せて宅地を置き、道路との間に前庭(干場)のある配置は、昆布を干す必要性がその形態を必然とさせたと思われる。しかし、機能だけを考えれば、道路を宅地に寄せて、住宅が道路に面していても良いのであって、むしろ道路と宅地の間に作業空間を置くことに意味があったのではないか。銭亀沢地区は漁村地帯であったが、江戸時代には汐首岬が和人地の東境であったため、巡検使などの交通の要地でもあり、銭亀沢字本村は「宿」の仕事もしていたようである。
 字湊と字古川尻に集中する鰯漁場は、浜の広大な干場に鰯建網漁のための船納屋、網納屋、漁師宿施設と、鰯絞粕加工のための釜などが置かれる。鰯漁場の経営は、何艘もの船を所有し、広大な浜を必要とし、多くの漁師を雇って成り立つもので、いくつかの一族グループが経営主体であった。一九世紀の中頃の字湊は集落形成が遅れるが、字古川尻は二〇軒ほどの集落であった(「蝦夷日誌」前掲書)。この字古川尻の集落は経済的に有力な一族グループと零細な昆布漁家および一族グループに付属する一族の末端成員および雇用漁師からなる階層的な村落社会であったと思われる。また、この鰯曳網漁は先に述べたように一八世紀後半以降に発生し、それまでの横並び的な漁村社会が、階層差を大きく持った社会へと変動期を迎えたと考えられる。字湊と古川尻では、干場と宅地が対応した敷地を持ってはおらず、宅地の状況はわからないが、住宅形式は渡島半島西海岸の番屋建築の影響を受けている(「農家・漁家の生活」『函館市史』都市・住文化編)。鰯曳網業者が本村からの分離組であったとしても、鰯建網を経営する活動原理や住居様式は、むしろ鰊漁場の影響を受けているように思える。
 渡島半島沿岸部は、近世以前にさかのぼる和人の集落を持ち、近代に明治政府によって地租が設定されるまで、近世期の幕藩制社会における村落社会の形成と変動過程をたどってきた。銭亀沢地区の集落形態は、近世以前の原型の上に、近世前期の小前漁師による昆布漁業形態が展開し、その周辺部に近世後期の鰯漁業による階層化の進んだ土地所有形態が進展したといってよいであろう。