藤本(1994)は、各地の河川中流域に多くの遺跡が分布し、拠点的な大遺跡と小規模な遺跡の組み合わせがみられること、川筋に沿ってみられることから、後の擦文文化、アイヌ文化に続く河川漁労を主とした生業体系がこの時期に成立したとしている。
石器は器種・量ともに減り、定型的な石器は無柄石鏃くらいで、あとは粗雑なつくりのナイフや削器だけとなり、後葉には小型な剥片の一部を加工した削器だけとなり、藤本(1994)は、鉄器の普及と木製道具での代替および河川漁労への単一生業の依存が石器製作の伝統を崩壊させたとしている。
続縄文文化前半期末から後半期初頭の江別市江別太遺跡は、千歳川の河岸に位置した河川漁労の遺跡で、サケ類の魚類捕獲を目的とした杭列やヤス、スプーン、木鉢、舟形鉢、匙、箸、容器の柄、銛先、叩き棒、釣竿、たも網柄、弓、ナイフの柄、斧柄、楔、串、櫂などの数多くの木製品(第53図)、サケ類の魚骨や各種の植物遺体が発掘された(江別市教育委員会、1979)。札幌市K135遺跡はサケと獣骨を含む多くの焚き火跡が発掘された遺跡で、後葉の後北式C2−D式土器が使用された頃には、東北の弥生後期の土器と管玉、ガラス玉、土製紡錘車などの弥生系遺物と、サハリン南部や北海道北部の鈴谷式土器や石斧が出土し、南北との交流があったことを示している。南との交流は東北地方南部に進出していた農耕集団との接触を示し、後に擦文文化が成立する基礎がこの頃から形成されはじめたと考えられる(札幌市教育委員会、1987)。
第53図 江別江別太遺跡から出土した木製遺物(1~3、木製柄付ナイフ、杭、8~10、13、銛先、11~12、斧柄、14~16、叩き棒、17~18、串、19、スプーン柄、20、装身具、21、櫂、22、匙、23、用途不明木片、24~25、木鉢)
高橋正勝「木製品」『縄文文化の研究6』雄山閣、1994
土器 道央に分布した大狩部式の系統を引いた縄線文系土器と、道央に進出した道東の宇津内・下田ノ沢系土器や恵山式土器が接触して後北式土器の祖形ができあがったとされている。後北式土器は5期に区分されており、後北A式土器と恵山式土器の南川Ⅳ群土器が並行する。後北式土器が道南に進出するのは後北B式になってからで、遺跡数が多くなるのは後北C1式土器(第54図)の頃からである(石本、1984)。
後北B式土器は、倒立した釣鐘型の深鉢や、中央部かやや上方にふくらみがある、提灯型の釣耳がついた壷型土器である。数条の横方向の帯縄文がめぐらされ、その上に亀甲形、山形、方形に区画するように擬縄貼付文が付される。擬縄貼付文はより細くなり、細かな刻み目で縄をかたどって胴部まで施文が行われる。
後北C1式土器の器形は後北B式と同様で、体部に横走する爪形ないしは列点文をめぐらし、これらの文様で上下が区画された部分に数条の横方向の帯縄文が施文され、これに亀甲形、円形の擬縄貼付文がめぐるが、粘土紐に細かい刻み目がみられない(第54図1~7)。全道に分布しただけでなく、南千島や本州の宮城・新潟県まで進出した。
後北C2−D式土器は、深鉢・浅鉢・注口土器がセットで、すべて平底となる。円や弧を描く帯縄文を、断面形が三角形の微隆起線文や三角列点文で縁どって文様が構成される。口唇は鋭い三角形に整形され、細かな刻み目がめぐらされる(第53図8~14)。北海道全域はもとより南は本州の新潟県中央部、北はサハリン南部、東は南千島まで分布した。
第54図 北海道西南部の遺跡から出土する後北式土器(1~7、後北C1式:七飯町聖山遺跡、8~12、後北C2~D式前葉:8~9、11、七飯町聖山遺跡、10、乙部町オカシナイ遺跡、11、瀬棚町南川遺跡、13~15、後北C2~D式中葉:函館市西桔梗E2遺跡)
石本省三「北海道南部の続縄文文化」『北海道の研究1』清心堂、1984
道具 後北式土器に伴った石器や装飾品には無茎石鏃、石銛、ナイフ状石器、掻器、石斧、敲石、砥石と碧玉質管玉、琥珀製平玉・棗玉、青系統のガラス玉がある。また、フゴッペ洞窟からは回転式銛頭、釣り針、弓筈、斧、ヤス、針と針入れなどの骨角器が出土。
縄文文化以来の伝統的な文物の多くを継承したのは後北B式土器の段階までで、C1式土器の段階には旧石器時代以来から主要な道具として使用されてきた石器が激減し、副葬品として定型的な石鏃と極小形の無茎石鏃、円形掻器、粗雑な石斧、不定形な剥片石器、敲石がみられるだけとなる。鉄器の普及とそれに伴った木製道具での代替え、河川漁労への依存が石器製作伝統を崩壊させたと考えられている(藤本、1994)。
住居と墓 後北式土器がともなった住居跡の発掘例は少なく詳細について不明な点が多い。旧豊平河畔遺跡で初期の円形でベンチをともなった竪穴住居跡が発掘され、常呂町栄浦第2遺跡や同町岐阜第3遺跡から後北C2式土器をともなった石組炉をもち、舌状部をもつものと、それが明確でない竪穴住居跡が発掘されている(宇田川、1994)。
住居跡に比べて墳墓は数多く確認されている。加藤(1994)によると、平面形が円形または楕円形のものが主となり、恵山文化期後半から後北式文化期にかけて壙底に柱穴状ピットが設けられる。副葬品は後北A・B式期では恵山文化期と同様に完形土器、石鏃、ナイフ、石斧などで、後北C1式土器の頃には管玉、ガラス玉が副葬されるようになる。後北C2式土器の頃には江別市内のように完形土器が出土する墓壙が多い遺跡と、恵庭市や札幌市のように完形土器が出土する墓壙が極端に少ない遺跡がみられる。石器やそのほかの副葬品は極端に少なくなり、ラウンド・スクレーパー、石鏃がある程度で、ナイフはきわめて粗雑なものとなる。
北と南の文化接触 前述したように続縄文時代前半期末から後半期(3世紀から5世紀)にかけて、宗谷海峡を挟んだサハリン南岸や稚内周辺に分布していた鈴谷式土器が札幌市や江別市の遺跡から出土しはじめる。同じ頃、東北地方に分布していた最後の弥生式土器である天王山式土器が道南や札幌市周辺の続縄文文化の遺跡から出土し、この頃北海道には北と南の文化要素が流入していたことが明らかになっている。他地域から文化要素が流入してきただけではなく、北海道の土器も本州や千島列島、サハリンに進出している。本州での分布を見ると、太平洋岸の南限が宮城県で、日本海側の南限が新潟県で、秋田県の寒川遺跡では東北地方最後の弥生式土器と北海道の後北C2−D式土器が同じ墓壙の中から出土している。
3世紀から5世紀にかけては古墳寒冷期とよばれている寒冷期で、気候が悪化した時期であるが、この時期に南と北の文化との間に相互の交流があったことを示すものである。土器だけが本州東北地方に持ち込まれたのではなく、人の移動があり、水田稲作を行っていた弥生文化の人々との間に交易を中心とした交流があったと考えられる。したがって、北海道で狩猟・漁労を主生業としていた人々も東北地方との接触により、農業に関する知識を得ていたとしても不思議ではない。続縄文時代になると石狩低地帯より西側に限られるが、道内の遺跡からソバの花粉が検出されたり、コメやオオムギ、アワ、ヒエなどの栽培植物の種子が検出され、その数が縄文時代晩期よりも多くなっていることも本州との交流が活発であったことを物語る。