歴代村長とその業績・村勢
初代村長 太田留治(明治39年4月1日~42年3月31日)
明治39年(1906年)4月1日、郷土尻岸内村は2級町村制を施行、初代村長には、尻岸内村11代戸長を務めていた太田留治が引き続き就任した。
太田は岩手県出身の人で、謹厳誠実をモットーに村政を執行し全村民の信頼に応える。
太田が村長を務めたこの時期は、日本が日露戦争(明治37・38年)に勝利し、近代化に向かい政治的にも経済的にも発展し、世界的に注目された時期といえよう。
道政にあっては、北海道長官河島醇が、道庁機構を改正し綱紀の粛正に実を挙げ、拓殖計画の推進を強化、一方、北海道の基幹産業の水産業の振興を計るため、明治33年(1900年)公布の産業組合法による漁業協同組合の組織指導を推進する。
郷土にあっては、日本経済界の急発展に伴い古武井硫黄鉱山も増産を続ける。村としても公共施設の充実に努め、また、古武井地区の未開地28,134坪・日浦地区未開地67,184坪、同76,146坪を植林目的で付与を申請する。陸路の開発について、尻岸内の有志、高橋常之助、浜田栄助らは湯川村、尻岸内村間の道路開削計画に積極的に関与する。
なお、太田の在任中には悲惨な事故も相次いだ。明治40年(1907年)3月8日、古武井硫黄鉱山(朝田鉱山)で大雪崩が発生、鉱夫宿舎を襲った。太田村長初め役場吏員らは救援に全力を尽くしたが、29人(男11人女18人)が圧死するという大惨事となった。しかも、被害者の大多数は老人といたいけな子供達であった。同年8月には函館で火事が発生、2千400戸を消失する大火災となった。太田村長は、即刻、当村出身の罹災者を見舞い援助物資を送るなど、その治績にもみるべきものが多かった。
初代村長として、村政の業績を上げ、村民に慕われた太田は、明治42年(1909年)3月末をもち高橋伊太郎村長代理書記に事務引き継ぎをし、江良町(現松前町)戸長として全村民に惜しまれつつ離村する。
2代村長 堀 良彦(明治42年7月30日~43年12月24日)
明治42年(1909年)7月30日、尻岸内村長を命ぜられ赴任した堀は、鹿児島県旧薩摩藩士族の出で、振出しは東京市浅草区役所に奉職したが、同23年(1890年)1月、来道し札幌精糖会社に入社し空知農場に勤務。後、転じて炭鉱鉄道会社に勤務したが、同27年(1894年)には警察官となり、釧路警察署を振出しに同42年まで12年間警察官として活躍する。この間、同35年には重罪犯人、島長五郎を逮捕して名を挙げ、同40年には斜里分署長心得に栄進、同42年(1909年)5月には職を辞し、同年7月30日、尻岸内村長として赴任するという多才な経歴の持ち主である。
堀の在職は1年6ケ月という短い期間であったが、その経歴が示すとおり「座しては語り、起ちては行動」という「実践躬行」肌の人であった。したがって計画即実践ということから着任後直ちに、納税表彰規定を設け、まず日浦・根田内(現字恵山)の両集落に納税組織を奨励し設置、他、集落へも積極的に働き掛ける。また、教育面では、尻岸内小学校校舎の改築費3828円の予算で支庁長に認可を求め、却下される(改築費に充当する現校舎売却費の見積額が過大過ぎるを理由に)が、再三再四、窮乏を訴え、ついに教員事務室・裁縫室・土台替えを承認させるなどの行政手腕を発揮した。
前村長の継続事業では、日浦地区未開地、67,184坪・76,146坪の植林目的付与申請を、明治43年(1910年)無償付与で認可させ、植林計画を着々実施させたのである。まさに、有言実行の村長であったが、同年12月24日、余別村(現積丹町)村長の辞令を受け、緒方正二村長代理書記に事務引継ぎ去って行く。
3代村長 亀谷供次郎(明治44年2月18日~大正元年8月10日)
明治44年(1911年)2月18日第3代村長に赴任した亀谷供次郎は、着任早々、鋭意、村政に取り組んだ。すなわち、翌3月には、日浦241番地の山林27町歩余の無償付与を受け、10月には古武井川に200余円を投じて70間余(約130メートル)の橋梁を建設、12月には古武井鉱山元山に要望の強かった特別教授所(古武井小の分校)を設置する。そして、翌大正元年には尻岸内小学校に2教室を増築する。さらに、植林規則を設け植林10ケ年を定めるなど、短期間に施設の建設などに鋭意取組み、村発展に尽くしたが、当時、役場職員間に派閥争いの風聞がある中、収入役榎栄太郎の公金取扱上の問題が発覚、亀谷村長の告発により司直の手が入り、収入役榎栄太郎、同45年2月26日を以て懲戒免職という不祥事になる。後任収入役については、上席書記の住吉亀太郎が収入役事務を兼務するが、亀谷供次郎村長は、この不祥事の責任問題から、大正元年8月18日知内村長として転任を命ぜられ、村長代理書記住吉亀太郎に事務引継ぎをし村を去っていく。
この時代、古武井硫黄鉱山の全鉱区を財閥三井が手中に収め増産を計り、函館、尻岸内(古武井)間に一般貨客船の定期航路が開かれ有川丸・渡島丸が就航するなど、産業が著しく発展する中、公の各種施設の建設等、村行政に新たな構想を持ち、実行に移そうとしていた最中(さなか)の亀谷村長の転任は、村にとって大きな損失であった。
歴代上席書記(助役)
2級町村制施行当時、村長を補佐しその代理を務める特別職「助役」は設けず、行政職として経験を積んだ上席の(首席)書記がその職務を遂行する規則となっていた。なお、先に記した郷土の村長在任期間を見ても分かるように、当時は、村長の引継ぎがスムースに行われず不在期間が相当長期に亘ってあったように推測される。その意味でも、村長代理を務める上席書記の職責は非常に重く、また、手腕を問われたと推測する。
武石勝治書記(明治39年4月1日~41年7月)
武石が上席書記に任命されたのは明治39年4月1日であるが、明治37年(1904年)5月1日、函館区役所から「尻岸内村戸長役場筆生ヲ命ズ」の辞令を受け尻岸内村戸長役場に筆生(戸長役場当時の書記に当たる職名)として赴任・勤務している。
武石は秋田県大館の士族出身、秋田郡役所、函館病院・函館支庁・函館区役所に勤務、行政職としては豊富な経験の持ち主で、明治39年(1906年)4月1日、2級町村制施行と同時に、太田戸長の村長就任とともに首席書記に任命される。以降、太田村長を補佐し職務を遂行するが、同41年7月、武石(55才)は自己都合により退職する。
高橋伊太郎書記(明治41年7月~42年12月16日)
高橋は戸井村出身、明治32年(1899年)小安村戸長役場に奉職し9年間務め、同40年(1907年)厚岸町役場書記として転勤、翌41年(1908年)7月、武石の後任、尻岸内村役場首席書記として赴任する。同42年(1909年)3月31日、太田村長の江良町戸長へ転任後、同年7月、堀良彦第2代村長赴任までの3ケ月余、村長代理書記として村政を預かり職務に専念するが、その年12月首席書記を辞任する。
緒方正二書記(明治42年12月16日~44年4月29日)
高橋の首席書記辞任にともない昇任したのが、税務係主任であった緒方正二書記である。
緒方は鹿児島県、旧薩摩藩士の出で、故郷の小学校で教鞭をとっていたが、明治36年(1903年)来道し上川税務署、室蘭税務署・室蘭支庁勤務、戸井村役場税務・消防主任を経て、尻岸内役場税務係主任として赴任し、高橋首席書記辞任の後を受け、同42年(1909年)首席書記となり堀村長を補佐する。同43年12月24日、堀村長余別村長として去った後、翌44年(1911年)2月18日、亀谷村長赴任までの2ケ月弱、村長代理として職務を遂行、同年4月29日、吉岡村書記として転任する。
住吉亀二郎書記(明治44年4月30日~大正2年7月11日)
住吉は松前郡福島町の出身、明治34年(1901年)江良町(現松前町)戸長役場を振出しに根部田村(現松前町)戸長役場・福山町(現松前町)役場を歴任、同44年4月17日、尻岸内村役場書記として赴任、30日、緒方首席書記の後を引き継ぎ亀谷村長の村政を補佐する。翌45年2月26日、榎栄太郎収入役の懲戒免職にともない収入役職を兼務、大正元年8月、亀谷村長が知内村村長として転任、島中村長の発令まで村長代理書記として村政を預かるなど、首席書記として重責を担った。島中村長の赴任後退任する。
歴代収入役・職務代理者
村長、助役とともに、いわゆる村三役として、村の財政を預かる収入役の責務は、村長・助役とともに非常に重い職務であった。この、収入役の役職(名称)は「2級町村制施行・明39.4.1」にともない置かれたものである。ただ、この収入役は財政という専門制の強い職務で、当時、そういった人材に乏しかったように思われる。
北原秀一収入役職務代理(明治39年4月1日~39年7月16日)
北原は秋田県能代町の出身、明治32年(1899年)秋田県東雲町役場に奉職、同34年(1901)に来道、銭亀沢村、湯の川村、八雲村の戸長役場を歴任。同38年8月、日露戦争のため第8師団歩兵隊第17連隊に応召されたが、10月には召集解除となり、同39年(1906年)1月、尻岸内村戸長役場に臨時筆生として奉職する。同年、2級町村制施行とともに臨時収入役職務代理を兼掌し、同年7月16日、初代収入役、榎栄太郎が任命されるまでその職責を果たす。
榎 栄太郎収入役(明治39年7月16日~45年2月26日)
榎は明治32年(1899年)尻岸内村戸長役場に筆生として奉職、同39年7月16日、その経験、職能をかわれ初代収入役に命じられ就任、同43年(1910年)には再任された。榎の収入役在任時代は、日本の産業界が飛躍的に発展した時期で、郷土に於いては古武井硫黄鉱山の産出量が東洋一を誇るなど、村の税収も増大し榎は村の財政を切り盛りした。
住吉亀太郎収入役職務代理(明治45年2月26日~45年4月10日)
住吉は、明治45年、榎収入役の公金事件当時、首席書記の任にあったため、榎解職されるや直ちに収入役職務を兼掌、同年4月10日山田司が収入役就任までその職を務める。
山田 司収入役(明治45年4月10日~大正2年6月19日)
山田は青森県弘前の人、旧津軽藩士で、明治6年、故郷の東光寺村で私塾を開き子弟を教えていたが公立学校設立以降、県下小学校で教鞭をとる。明治21年(1888年)教壇を去り下十川登記所を経て南津軽郡役所に奉職する。その後、来道し同28年(1895年)尻岸内村戸長役場に筆生として奉職。同39年(1906年)3月の第1回村会議員選挙に立候補して当選し議会活動をするが、尻岸内村収入役就任の要請を受け村会議員を退き、同45年4月10日就任。収入役を1年2ケ月務め大正2年(1913年)6月19日依願退職している。
以上、明治39年の2級町村制発足当時(明治期)の村三役についてその履歴・在任期間等記したが、これらの役職者は士族出身、また、行政職としての経験・専門性を積んだ人々を任命したことが理解できる。村長の転勤が多く且つ各町村の在任期間が短かいことは、国の政策として、地方行政の普遍性・一般化、あるいは徹底を計ったものと推察される。村長転任に伴い不在期間が相当開いたのは、その適任者が少なく配置に苦慮したのではないかと想像される。