5、部長制度の設置

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 先に、2級町村制施行当時(明治期)の尻岸内村三役について記したが、この部長制度の記述に当たり、北海道2級町村制度「町村吏員」の部長の条文について触れておきたい。以下、北海道2級制度(規定)より抜粋。
 
『第二章 町村吏員』
 本章、第一款は町村吏員の組織選任を掲げ、第二款は町村吏員の職務権限を定め、第三款は、町村吏員の給料及び給与に関することを規定せり。
 本章町村吏員とは『町村長・書記・収入役・附属員・臨時委員・部長等』を指す。
 第一款 組織及び選任
 第五条 町村に町村長・書記・収入役其の他必要の附属員を置き有給吏員とする。
 第六条 町村は處務便宜の為め町村規則を以て町村の区域を数部に分かち、毎部部長を置くことを得る。
     部長及び委員は名誉職とし北海道庁支庁長之が任免する。
    ・部長又は委員は独立の職務を有するものにあらずして町村長の指揮を請け町村事務の執行を補佐するに止まるなり。
 第二款 職務権限
 第一四条 部長は町村長の命を承け部内に関する町村長の事務を補助する。
 第三款 給料及給与
 第一六条 名誉職吏員は職務取扱の為要する実費の弁償を受けることを得る。
     ・実費弁償額及その支給方法は町村会の決議を経て支庁長の許可を受ける。
 
 以上の規定・条文から見れば、2級町村制での部長は、北海道庁支庁長から任命され、村長の指示のもと部内(当人の居住地区)の行政事務・実務を行う、地区に駐在する無給吏員ということになろう。ただ、その任免が北海道庁支庁長であり、肩書きはいわゆる名誉職である。つまり、人選に当たっては地域での人望と、無報酬ということからそれ相応の財力の人物が任命されたと考えてよい。そして、その仕事も相当の人物でなけれは遂行できない、例を挙げれば、納税の推進や徴兵など行政事務の先端で最も難儀なものであったと推測する。
 
部長規則と部長の任命
 尻岸内村の部長規則は第1回選挙で選ばれた村会議員により、明治39年8月5日の村会において『尻岸内村規則第5号』として定められた。
 各地区及び部長は次の通りである。なお( )内に在任期間を記す。
 
 第1部長(日浦地区)
  東  三吉(明治40.8.21~不明)
 第2部長(尻岸内地区)
  高橋常之助(明治40.8.21~不明)
 第3部長(女那川地区)
  柳本 三郎(明治40.8.21~大正2.3.15)
  佐々木伝右エ門(大正2.3.17~同2.3.25)
  福井平四郎(大正2.3~同2.11.1)
 第4部長(古武井地区)
  大島菊四郎(明治40.8.21~明治44.12.9)
  河村 儀一(明治44.12.22~不明)
 第5部長(古武井鉱山)
  疋田 喜重(明治40.8.21~明治44.9.11)
  谷島豊五郎(大正元.12.6~同3.5.9)
 第6部長(古武井鉱山)
  佐藤 徳蔵(明治40.8.21~大正元.12.15)
  田口角太郎(大正元.12.16~同3.5.9)
  伊東 保基(大正3.5.15~同4.6.1)
 第7部長(根田内地区)
  三好 吉松(明治40.8.21~大正3.5.9)
 
 この地区割についてはそのままであったが、大正4年7月21日より部長については第1部長、第2部長…を廃して大字を冠して日浦部長、尻岸内部長と呼ぶよう改められた。
 
部落組織とその活動
 部長の任命と部落地区割りについては、この時期に新しく組織されたものではない。もともと幕藩時代に町方の自治組織として「五人組制度」が存在していた。
 明治に入り開拓使はこの組織を存続させ広げ、新たに町村民の守るべき事柄について「御条目」を示した。それは「相互検察(違法者を監視し合う)・共同担保(納税などの共同責任)・互助共済(助け合いの精神、いわゆる自治)」を原則にしたもので、地方制度の上で最小地域団体であった。この団体の性格は地縁的共同団体でその発達は判然としないが、戸長役場が設置された明治12年(1879年)ころには、地域差はあれ大字、字単位に存在していたと想像される。
 これらの団体は共通の問題を協議するため、内容と組織により「村寄合」とか「大寄合」と呼び、部落の長の私宅や寺院や神社の拝殿で集会を行っていた。
 例えば、正月の初めの「初寄合」では、移住者の村入りの披露・承認をしたり、人別割りの賦課徴収(税)、精算勘定など、年間の部落予算案を審議する。夏6、7月の「寄合」では、昆布採取に関する村決め(申合事項)を行うのが例で、これに違反するものは漁獲物や漁具の没収などの村制裁が取決められた。
 この部落の組織・活動について『尻岸内村財産保護会』の所蔵する記録文書に明治26年(1893年)以降、尻岸内本村(現在の豊浦・大澗・中浜・女那川・川上の大字)における部落の組織・活動の様子が記述されている。
 それによると、部落の長(総代人と呼ぶ)、協議員(理事)10人、伍長(班長)22人、以上村人により選出されるとある。
 また、議事録から例年協議された主な案件を挙げると、字費(部落会費)の割付けと徴収、昆布採取に関する申合わせ・学校施設と賦役人夫の供出・消防組に対する財政援助・医師への手当支給・海産干場利用面積割付と賃貸料取立・村会議員候補者の選定・村会議員選挙権委任状の取纏・神官手当の支給・神社祭典執行に関する協議・土木工事への賦役人夫の供出・孤児、寡婦その他生活困窮者への救助・難破船救助などである。
 以上、これらの部落の活動は、行政(役場)の先端の仕事でありボランティアであり、相互扶助であり、自治的な活動であるといえよう。これは部落の性格が、地縁的共同団体であり(漁業をとおしての)運命共同体であるという必然性から生まれたものと思われる。そのためには役員(リーダー)の選出も村人(部落民)の手により行われたのも当然であった。
 次に歴代の総代人(部落の長)と任期を記す。
 
 ①松本勝三郎  明治17.月日不明~明治27.2.24
 ②秋田多三郎  明治27.2.24~明治29.1.17
 ③野呂 丑蔵  明治29.1.17~明治32.2.19
 ④松本 福松  明治32.2.19~明治32.12.2
 ⑤野呂 平吉  明治32.12.2~明治37.2.19
 ⑥三上三五郎  明治37.2.19~明治38.2.22
 ⑦浜田 栄助  明治38.2.22~明治39.3.6
 ⑧松本 福松  明治39.3.6 ~明治42.1.8
 ⑨高橋常之助  明治42.1.8 ~大正5.3.17(死亡による退職)
 
 なお、先出の通り、明治39年2級町村制の施行に伴い、同年8月5日の村会に於て「部長規則」(規則第5号)が設けられ、各部落の推薦を受け支庁長任命の7部長がおかれたが、総代も存在し実質的に部落の活動の中心的な役割を果たした。また、これらの中から制度上の部長に任命されたり村会議員に当選し活動したものもいた。
 これらの部落組織は、明治39年に施行された(2級町村制の)部長制度と相補(あいま)って、僅か7名で担当する村役場の行政機能を補強するとともに、漁業・漁業権の問題点の解決など生産基盤を支え、社会・宗教行事などの地域活動を遂行し、また、部落民の要望を直接村役場へ伝える役割も担うなど、言い換えるならば、住民にとって最も身近で実質的な行政的機能を果たしたといえるのではないか。