この畑反別書上小前連印帳は、開拓使・明治政府がこれまでの耕地(隠し畑)及び新しく開墾した土地の私有を認めるため、その反別(面積)を書上げ届けさせたものであり、また、課税の対象ともしたものでもある。従って、これは、江戸末期から明治にかけての農耕地の所在をかなり正確に示しているものと推察されるので、全文を記載する。
反別書上小前連印帳(たんべつかきあげこまえれんいんちょう)(道立文書館所蔵) 茅部郡一ノ小区 尻岸内村
一、畑反別拾壹町八反四畝九分
但シ従前無年貢 茅部郡 尻岸内村
新開年始不相譯
内 譯
〈日浦〉 枝郷日浦
第一番 濱中 日浦11番地 一、三畝 三浦辰之助㊞(不明)
第二番右同断 同一五番地 一、八畝 米澤清十郎㊞(不明)
第三番右同断 同一六番地 一、六畝 三浦藤吉㊞(不明)
第四番右同断 同九番地 一、四畝 若山六三郎㊞(不明)
第五番右同断 同一九番地 一、六畝 成田文吉㊞(不明)
第六番 亀沢 同一二番地 一、五畝 土谷團右衛門㊞(不明)
第七番右同断 同七番地 一、三畝 松本勘吉㊞(不明)
〈尻岸内〉
第八番字一本橋ノ野 字一本橋五八番地 一、七反八畝三分 武佐兼松㊞(不明)
第九番字同断 字コウタ二三番地 一、一反四畝 野呂亦三郎㊞(不明)
第一〇番字メナ川野 字メナ川野一七番地 一、九畝三分 赤井松助㊞(不明) 代印 坂井半次郎
第一一番字メナ川野 字澗三六番地 一、壹反八畝 野呂平四良㊞(不明)
第一二番字メナ川野 字澗三五番地 一、二反六畝六分 西村善治良㊞(不明)
第一三番字メナ川野 字ムヱトマリ五番地 一、壹反四畝壹分 吉田喜六㊞(不明)
第一四番字同断 字コウタ二七番地 一、壹反壹畝 竹内治右衛門㊞(不明)
第一五番字メナ川野 字サカエウタ五一番地 一、二反三畝三分 木津谷留乃助㊞(不明)
第一六番字同断 字澗四〇番地 一、壹反壹畝三分 木津谷久四良㊞(不明)
第一七番字同断 字澗三一番地 一、三反四畝六分 秋田太三良㊞不明)
第一八番字メナ川野 字コウタ二一番地 一、壹反弐畝 山内與作㊞(不明)
第一九番字同断 字ムヱトマリ一三番地 一、壹反四畝 松本福松㊞(不明)
第一九番字同断 字澗三七番地 一、二反五畝壹分 野呂利喜松㊞(不明)
第二〇番字同断 字澗二九番地 一、二反 竹内彦三良㊞(不明)
第二一番字前同所 字澗三八番地 一、三反三畝四分 増輪半兵衛㊞(不明)
第二二番字メナ川野 字メノコナイ五六番地 一、四反壹畝弐分 玉井彦松㊞(不明)
第二三番字メナ川野 字サカエウタ四八番地 一、八畝三分 上田定右衛門㊞(不明)
第二四番字カラ川野 字ムヱトマリ一〇番地 一、壹反壹畝 佐藤作治良㊞(不明)
第二五番字カラ川同 字ムヱトマリ一一番地 一、壹反壹畝 三上源吉㊞(不明)
第二六番字メナ川野 字澗三三番地 一、五畝六分 佐藤久四良㊞(不明)
第二七番字カラ川野 字カラ川野寄留人 一、三反五畝 山本安左衛門㊞(不明)
〈古武井〉
第二八番字長木ノ澤出口 字上同所一六番地 一、壹反九畝三分 斎藤亀吉㊞(不明)
第二九番字武佐土場 字上同断八番地 一、壹反六畝六分 長谷川源七㊞(不明)
第三〇番字カラ川野 字上同断一五番地 一、二反六畝 伊瀬八郎兵衛㊞(不明)
第三一番字タイヘイウダ 字上同断二四番地 一、四畝三分 工藤市右衛門㊞(不明)
第三二番字ムサ川野 字上同断三七番地 一、壱反八畝三分 福澤善治郎衛㊞(不明)
第三三番字熔鑛爐野 字上同断二番地 一、壱反弐畝 山野千松㊞(不明)
第三四番字ホントマリ 字上同断三〇番地 一、四畝 古部長右衛門㊞(不明)
第三五番字栗ノ木臺野合 字上同断一番地 一、六反弐分 佐々木久助㊞(不明)
第三六番字タイヘイウダ 字上同断二五番地 一、弐畝五分 古山嘉八㊞(不明)
第三七番字ムサ川野 字上同断四〇番地 一、九畝 成田源助㊞(不明)
第三八番字カラ川野 字上同断一四番地 一、八畝三分 川村彦右衛門㊞(不明)
第三九番字長木澤ノ野 字上同断同 一、四畝二分 同人
第四〇番字カラ川ノ沢 字上同断一二番地 一、九畝 伊藤松右衛門㊞(不明)
第四一番字カラ川ノ沢 字上同断三四番地 一、壱反弐畝弐分 福澤勝五郎㊞(不明)
第四二番字ムサ川越場 字上同断三二番地 一、壱反五畝八分 山田甚乃烝㊞(不明)
第四三番字カラ川沢 字上同断一六番地 一、七畝 伊藤瓣蔵㊞(不明)
第四四番字カラ川沢 字上同断二一番地 一、弐反四畝五分 伊瀬半次郎㊞(不明)
第四五番字カラ川沢 字上同断三二番地 一、八畝九分 長野團兵衛㊞(不明)
第四六番字サキノ野 字サキ一番地 一、壱反壱畝六分 村上庄兵衛㊞(不明)
第四七番字同断 字同断二番地 一、壱反壱畝六分 伊藤吉兵衛㊞(不明)
第四八番字同断 字同断三番地 一、九畝三分 福澤丑松㊞(不明)
第四九番字同断 字同断四番地 一、壱反六分 沢田孫兵衛㊞(不明)
第五〇番字同断 字同断五番地 一、壱反壱畝六分 成田文二郎㊞(不明)
第五一番字同断 字同断六番地 一、七畝六分 福澤乙松㊞(不明)
第五二番字同断 字同断七番地 一、八畝三分 山崎四郎兵衛㊞(不明)
第五三番字同断 字同断八番地 一、壱反 南分入右衛門㊞(不明)
第五四番字同断 字同断九番地 一、壱反壱畝六分 村松利八㊞(不明)
第五五番字寄場野 字寄場一〇番地 一、壱反三畝三分 佐々木乙右衛門㊞(不明)
第五六番字同断 字同断一一番地 一、六畝六分 福沢文蔵㊞(不明)
第五七番字同断 字同断一二番地 一、壱反 福沢三二郎㊞(不明)
第五八番字同断 字同断一三番地 一、壱反三畝三分 福沢半次郎㊞(不明)
第五九番字同断 字同断一五番地 一、三畝三分 笹木傳六㊞(不明)
第六〇番字同断 字同断一六番地 一、壱反三畝三分 平嶋弥次兵衛㊞不明)
第六一番字中濱野 字中濱一七番地 一、三畝三分 山田金五郎㊞(不明)
第六二番字同断野 字同断一八番地 一、壱反三畝三分 山田卯兵衛㊞(不明)
第六三番字同断野 字同一九番地 一、壱反三畝三分 沢邊三乃烝㊞(不明)
第六四番字同断野 字同断二〇番地 一、壱反三畝三分 長田専太郎㊞(不明)
第六五番字同断野 字同断二一番地 一、壱反壱畝六分 福澤力弥㊞(不明)
第六六番字同断野 字同断二二番地 一、壱反 長田子之吉㊞(不明)
第六七番字同断野 字同断二三番地 一、壱反壱畝六分 笹川榮次郎㊞(不明)
第六八番字澗野 字澗二五番地 一、壱反 中野仁三郎㊞(不明)
第六九番字澗野 字澗二七番地 一、壱反三畝三分 三好又右衛門㊞(不明)
第七〇番字同断野 字同断二八番地 一、壱反 柳松太郎㊞(不明)
第七一番字同断野 字同断二九番地 一、壱反 亀沢権右衛門㊞不明)
第七二番字同断野 字同断三〇番地 一、六畝六分 村田忠次郎㊞(不明)
第七三番字同断野 字同断三三番地 一、六畝六分 高松甚兵衛㊞(不明)
第七四番字同断野 字同断三四番地 一、六畝六分 川村利右衛門㊞(不明)
第七五番字板下野 字同断三五番地 一、壱反三畝三分 笹田平蔵㊞不明)
第七六番字同断 字同断三七番地泉 一、壱反 泉六兵衛㊞(不明)
第七七番字同断 字同断三八番地 一、壱反 笹田七兵衛㊞(不明)
第七八番字同断 字同断四一番地 一、六畝六分 二本柳佐助㊞(不明)
第七九番字同断 字同断四二番地 一、八畝三分 三好亦吉㊞(不明)
第八〇番字同断 字同断四三番地 一、壱反 大坂徳平㊞(不明)
第八一番字同断 字同断四四番地 一、壱反 大坂力松㊞不明)
第八一番字同断 字同断四六番地 一、壱反 泉又五郎㊞(不明)
第八二番字同断 字同断四七番地 一、三畝三分 二本柳林八㊞(不明)
第八三番字シカヱ川(スカエ川)
字シカヱ川四八番地 一、壱反 泉六太郎㊞(不明)
第八四番字同断 字同断四九番地 一、三畝三分 泉吉松㊞(不明)
第八五番字同断 字同断五〇番地 一、壱反 岩村重五郎㊞(不明)
第八六番字同断 字同断五一番地 一、三畝三分 田中平七㊞(不明)
第八七番字同断 字同断五二番地 一、壱反 二本柳留蔵㊞(不明)
第八八番字七岩 字赤石五三番地 一、壱反 高勝五郎㊞(不明)
第八九番字同断 字同断五四番地 一、八畝三分 二本柳勝太郎㊞(不明)
第九〇番字同断 字同断五五番地 一、六畝六分 泉七太郎㊞(不明)
第九一番字同断 字同断五六番地 一、六畝六分 高石次郎㊞(不明)
第九二番字同断 字同断五七番地 一、六畝六分 大西武左衛門㊞(不明)
第九三番字同断 字同断五八番地 一、三畝三分 野呂与太郎㊞(不明)
右者當村畑反別書面之通相違無御座候間依之
小前連印奉書上候以上
明治六年 第十月
村用掛 西村善次郎㊞(不明)
同 坂井善治㊞(不明)
副戸長 増輪半兵衛㊞(不明)
民 事
御役所
上
この文書(もんじょ)では、畑反別『拾壹町八反四畝九分』となっているが、集計した結果2畝不足しており、実数は『拾弐町四畝九分』、約12ヘクタールとなる。なお、この書上げには「新開年始不相譯」と記述されているので、駆け込みで申請をしたのではなく相当以前から農耕が行われていたものと推察される。これを部落別にみると、日浦=3反5畝(約3.5アール)、尻岸内=4町5反6畝8分(約4.5ヘクタール)、古武井・根田内=7町壱反3畝壱分(約7.1ヘクタール)となっている。なお、古武井、根田内の地域割りが不明なのか合わせた反別としている。
ここで、耕地が集中しているのは、当然のことながらメナ川野(尻岸内川流域)の15筆、計3町3畝2分(約3ヘクタール)である。『メナ川野』に比較的広い耕地を所有していた人達は、メノコナイの玉井彦松(4反1畝2分)、澗の秋田太三郎(3反4畝6分)・増輪半兵衛(3反3畝4分)・西村善次郎(2反6畝6分)・野呂利喜松(2反5畝1分)といった相当古い家柄で、漁業を手広く営んでいた人達である。これらの家では家族が多くまた、出稼者・使用人なども雇っていたため、食料確保の必要から耕地を広げていったと推察される。また、その他の地域で当時、比較的に広い耕地を所有していた人達、『一本橋ノ野』の武佐兼松(7反8畝3分)、『栗の木台ノ野』の佐々木久助(6反2分)、『カラ川野』の山本安左衛門(3反5畝)、『カラ川沢』の伊瀬(勢)半治郎(2反4畝5分)等については、それぞれの場所がどのような実態・条件の所であったのか判断できないが、牧畜(牧草地)、あるいは野菜などの栽培・販売を半専業的に行っていた人達のようにも思われる。