底曳網漁業の歴史は大正3年(1914)、尻岸内の赤井常之助、銭亀沢の中宮亀吉、函館の杉浦・千葉五郎・山背泊漁業組合は動力手繰(底曳網漁業)を申請し許可を得たが自営するに至らなかった。その2年後の大正5年、函館の仙田友松はその権利を借り受け、15馬力程度の小型船を使用し、汐首岬より恵山岬間を漁場として数年にわたり操業を行い、好成績を収めたのが、この地方の動力手繰(底曳網漁業)の先駆といわれている。当時の漁獲物はカレイ及びヒラメで1操業、日帰り又は1泊で、曳網回数1日4、5回で水揚げは1隻当たり千400円から千500円であったという。
大正7年(1918)、機船底曳網漁業に動力捲揚機を採用(いわゆるトロール漁)するようになってから、様相は一変する。何しろ魚という魚を根こそぎ持って行くのである。
スケソウ・マス・メヌキなどの延縄、刺網漁と競り合ったばかりでなく、沿岸浅海漁場資源の荒廃をも招いたのである。尻岸内村では大正11年以来、川崎船手繰網が絶滅しメヌキ漁も全廃、職を失った漁民は村外に移住したり出稼ぎを余儀なくされた。また、大正12、3年頃には、尻岸内村字古武井、椴法華村、尾札部村ではタラ延縄漁は絶滅に近く、流網の被害も一部に見られたのである。
尻岸内村手繰網船着業の変遷(北海道漁業史より)
道庁はこのことを憂慮しており、大正9年(1920)9月には「機船底曳網漁業取締規則」制定して、底曳網漁の禁止区域を設けるなどして両者の調和を図ったが、底曳漁船の性能の発達と監視取締体制の不備から、実際には違反摘発など行われず、紛糾はますます拡大していった。
沿岸漁民の切実な願いは、大正15年(1926)11月に開催の北海道水産会第4回総会で、「禁止区域の拡大を要求する声」が上がり採択された。
以下、「北海道水産会第4回総会議案第15号」より
底曳網漁業は沿岸漁業者の漁場を荒廃し、漁業秩序を紊乱(びんらん)するのみならず、漁村の安定を根底より破壊せむとするものにして、今や本漁業に対する怨嗟の声全道に喧(かまびす)しきは必然の趨勢なりとす。
思うに機船底曳網漁業は素より之を排斥せむとするものにあらず。寧(むし)ろ進歩的漁業として敬意を表するに足る漁業なるも、彼の暴状の跡を顧れば徒らに沿岸漁民に脅威を感じせしめ、其生活資源を奪い去らんとするものにして、漁民は為に他に住所を転じ、又は職業を変えんとする如き傾向にありに至っては、実に見過ごすべからざるの事、而して、将来の為め慄然たらざるを得ず。既に道庁当局に於ては本問題の方針決し、曩(さき)に許可船数の減少を計画せられし、今又、監視取締船の建造を予算に計上せらるる等、夫々適応せる対策を講じせられつつあるは吾人の欣快とする処なりと雖(いえど)も、多年各種機関を通し或は請願に、或は建議を以て当局に上申せらる禁止区域拡大問題に至りては、更に其実現を見ざるは誠に遺憾とせざるを得ず。
之れ素より農林省の管掌に属し其経過を知るを得ざるも、過般招集の全国水産主任官会議に於て、現行禁止区域改定に関し論議せられたるやに聞き、聊か意を強くする処なるも、更に進て本道漁業者の世論を主務省に通ずるの必要の急なるを痛感せらることを以て、此際本道より多数の委員を農林省に派遣し、現在の耐え忍び能はざる被害の状態及び関係漁業の現況を詳細陳情し、禁止区域拡張に対する貫徹し、以て本道沿岸漁民永遠の福祉を増進すると共に沿岸漁業の恒久的発達の基礎固めとす。
而して本問題に対する計画左の如し。
一、本道より陳情委員数十名を農林省に派遣すること。
一、本問題を道水産会にて専ら掌ること。
一、陳情委員の出発期日は議会期日開会前とすること。
一、所要経費は適当の方法に依り拠出すること。
しかし、このような沿岸漁民の切なる要望にもかかわらず、紛糾はますます激しくなる一方で、解決の糸口さえ見出だせぬまま、月日は昭和の時代へと流れていった。