植民公報にみる古武井硫黄鉱山の概要

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 明治37年1月の殖民公報第18號(北海道廰)礦業の部に渡島古武井硫黄山と題して、古武井硫黄鉱山の概要が述べられている。明治36年は操業が軌道に乗った時期であり、当時の鉱山の概括的な状況を知る上で重要な資料であるので全文を掲載する。
 
渡島古武井硫黄山
 渡島国恵山岬の北西数里、亀田郡尻岸内村と茅部尾札部村との間、丸山の山脈の南麓北麓共に硫黄鉱あり北を木直硫黄山と言い南を古武井硫黄山と言う。現今盛に採掘するは古武井硫黄山なり。
 古武井硫黄山は尻岸内古武井川の上流、海面を抜くこと約三百メートルの処にあり海岸を去ること二里余りとす、営業区は二戸に分かれ一は押野貞次郎の借区に係り其鉱区坪数五〇六、一九八坪、一は山縣勇三郎の借区にして其鉱区坪数四六一、一九四坪とす、其地渓間僻陬(すう)なれども山元より海岸まで約五哩(マイル)(1哩=1.61キロメートル)の間は軽便鉄軌を施設し馬を以て車を引かしめ海岸より函館港に至る二六浬(カイリ)(1浬=1.852キロメートル)の間に小蒸気船を浮かべ毎日一回の往復をなさしめるを以て運搬に不便を感ぜず、郵便電信局は椴法華村にあり数時間に達するを得、尚山元より海岸まで電話線を架設せんとて目下計画中なりと言う。
 此の硫黄山の沿革を尋ねるに元治元年四月古武井の樵夫孫兵衛なるもの伐木のため登山し字ムサ沢に於いて黒色鉱石のあるを見て石炭と思い其一塊を持ち帰り点火して其石炭にあらずして硫黄鉱なるを知りたり、是れ此の硫黄の発見なり。翌月同村総代善次郎開坑し明治元年四月まで満四年間営業し製品二、九〇〇石を得て函館に送り販売せり、明治二年該坑の下流凡(およそ)一〇町余り東側の支流に於いて村民更に鉱床を発見す、爾後営業者屡々(たびたび)変更し時に休業して不振の有様なりしか、此の辺一帯の鉱床は押野貞次郎と山縣勇三郎との二人に帰するに至り事業盛大となり殊に豊富なる鉱床の発見により大に産出を増加せり。
 鉱床は凝灰岩中に鉱層をなして存在し其傾斜一定せず鉱層の厚さは表部に於いては一二尺若しくは四尺許なりしも下部に入れば甚だ厚くして現今採掘する所は一〇尺より四〇尺に至れり、鉱床の生成は詳かならざれども鉱床中希に木片の在るをみれば昔時近傍(きんぼう)の噴火口より流出せる熔硫の凝結したるものの如く察せらる。若しくは此所一の噴火口にして口中(噴火口)湛水(たんすい)し硫黄華を沈滞せしものの如く思はる。鉱石は硫黄に泥炭を混して成り灰色を呈す、希に暗黄色のものあり、硫黄量(含有量)は鉱石百分中四〇乃至九〇にして其質良好なり。
 押野営業区は一番坑二番坑三番坑の三坑あり、坑道総延長は昨年一一月に於いて千九十九間(約2キロメートル)なり、二番坑は目下最も多量の産出あり、三番坑は近頃開きたるものとす。山縣営業区も亦一番坑二番坑新坑の三坑あり、其内一番坑はこれを廃し他の二坑より採掘せり、開採法は横坑を設けて鉱層に達し更に鉱層の走位に沿って掘進す、其用具は鶴嘴又は径八分の鑚(さん)(のみ、きり)堅硬なる部分は普通の鉱山火薬を以て爆鑿(ばくさく)す、支柱は楢、山毛欅(けやき)を用う、堅硬なる部分には支柱を施さず、支柱の留め方は普通の四ツ目留めなり。
 採掘せる鉱石は坑道に施設せる、木道又は軽便鉄道(トロッコ)によりて運搬す。木道にありては容量百貫匁(375kg)鉄道にありては百五十貫匁(563キログラム)木製鉱車を用い人力により坑外に搬出す。撰鉱所(せんこうじょ)は坑外に設け手撰(てせん)又は手篩(てぶるい)により選鉱す。精煉所土地の狭隘(きょうあい)なるによりて一か所にこれを設(もう)くる能(あた)わず。押野の方は山元及び之一里を下りたる中小屋、更に一里を下りたる所の三カ所に設け、山縣の方は山元及び中小屋の二カ所に設く。鉱石の運搬は皆山元より軽便鉄道により鉱車を用い馬を以て引かしむ。精煉は従来の鍋形鉄釜を用い硫黄を熔解し釜の下部より樋を以て他の釜に導き冷却凝固せしむ。また、山縣の方に於いては蒲鉾(かまぼこ)形のレトルト窯を使用せり。
 製出する硫黄は一日につき押野の方は凡百石、山縣の方は凡百五十石とす、鉄道により海岸に搬出し更に小蒸気船に積みて函館に送る。其販売先はおもに北米合衆国、次は豪州なり、また国内に於いては人造肥料会社、硫曹(ソーダー)製造会社、製紙場へも少しく売り行くことあり。
 事務所は押野・山縣共に山元に設け出張所を中小屋に設く、鉱業人夫、押野の方は三三五人、内男二九八人女三七人、その他労働人員二五五人、内男二三二人女二三人合計五九〇人。山縣の方も大略之に比例する。(労働者総数一二〇〇~一三〇〇人)押野・山縣共同して嘱託医を古武井に置き、請願巡査を山元に置き、また教員一名を雇いて子弟に読書、算術、習字等を教授せり。「医師を山元に置かずして古武井に置くは、山元は硫気のため医療器具に錆を生ずるによる」病気の重なものは感冒及脚気症なりと言う。味噌その他日用品は両鉱区共店舗をおきてこれを供給す、また、鉱夫には毎月計算の時労働賃金の一割を積み立てしめ、これを事務所に預かりて一人の預金高五〇円以上に至れば年一割の利子を付すと言う。
(本文は出来るだけそのままとし、旧漢字・旧仮名遣いは新漢字・新仮名遣いに直した)
 
 この、明治37年の殖民公報、古武井硫黄山の概要は次のような構成(地理的状況、鉱山の沿革、鉱床、操業の実態・販路、鉱山の生活)となっていて、説明も要点を得ており概念としては理解できる。が、硫黄鉱山の全容を文章表現だけでイメージとしてとらえるには限界がある。
 古武井硫黄鉱山のいわゆる産業遺跡は、露天掘り跡、選鉱所跡の石組等発掘調査をすれば随所に認められると思うがそれも実際上不可能である。しかし、ここまでの調査や資料、また新たに発見された文献、図面などもある。加えて、当時としては珍しいほど鮮明な写真が何葉かみつかっている。鉱山でのドラマは『ふるさと民話』にまかせることにして、ここでは現在あるこれらの資料を出来るだけ生かし、当時の古武井硫黄鉱山の全容を明らかにしていきたい。