戸井線の当初の計画は、昭和11年(1936)着工・終点戸井駅までの完工が、同14年であったが、汐首・瀬田来地区の工事が15年にずれ込み、当初計画は昭和16年(1941)完成に変更された。
このことを受けて、戸井線の古武井までの延長は「昭和13年の貴衆両院の可決、同年7月の北海道建設事務所経済調査の尻岸内村来村」から、確実視していた地元は、3村連名で再び強力な陳情活動を行っている。
このことについて、昭和15年2月4日付の『函館新聞』は次のように報道している。
報道の趣旨は「下海岸方面の漁業は水揚げ出荷も大幅に増加しつつあるが、交通運輸状態は旧態依然とし改善を見ない。従って現在の戸井鉄道の延長を要望する声が漸次熾烈となってきている。今回地方産業の開発進展、その他の理由に基いて戸井線を尻岸内村字古武井まで一五キロを延長するよう、上達尻岸内・砂子戸井・高柳椴法華、三村長が戸塚道長官へ請願することになった」とあり、その請願書・理由を記している。
〈請願書〉 昭和15年2月4日付『函館新聞』より
大正十一年法律第三七号鉄道敷設法第一条による予定鉄道路線別表に掲ぐる中の北海道の部一二八/渡島国函館より戸井に至る鉄道/を延長し尻岸内村字古武井・椴法華村椴法華・尾札部村尾札部・臼尻村臼尻・鹿部村鹿部を通過し砂原村砂原駅に達する所謂環状の鉄道に建設完成の第一段階として/渡島国函館より古武井に至る鉄道に改正せられむ事を、謹而請願仕り候也。
〈理由〉
渡島国函館より戸井に至る予定鉄道路線を七二粁延長して、砂原村「既設・渡島河岸鉄道」砂原駅に連絡する環状線の促進建設を熱望する次第に候得共国家財政の見地より漸進する工程の順序利益なるを観察して、その第一段階程にして戸井より一五粁延長して尻岸内村字古武井に達するにおいて第一軍事上の重要性に鑑み、第二地方産業の開発発展上、第三文化発達人工増殖上延ては付近景観地紹介上より最も重要且つ緊要の路線と認められ候、のみならず古武井駅を利用する付近三万の住民はその交通の利便物資搬出入の恵沢に浴くする次第にて、然も本路線の延長なりて始めて鉄道線建設の意義を全うするものにて之有候。
下海岸住民に朗報を与えた昭和13年2月18日の請願書、貴族院衆議院両院の可決も、この最後の住民悲願の請願書も、ついに戸井線を完成させることができなかった。
昭和17年9月、戸井線工事は見事に構築された一連のコンクリートアーチ橋を後に、終点戸井駅まで3キロの地点まで進み、竣工予定を同19年まで延ばしながら、戦局の悪化・不急の鉄道として、ここで工事は中止となった(先出、富岡・山田論文−戸井線とコンクリートアーチ橋−)。
戸井線の完成・古武井までの延長を信じて止(や)まなかった下海岸の村々、なかんずく尻岸内の人々にとって、この中止は納得がいかなかったろう。軍部の要請である軍事鉄道、戦時下の鉄資源活用、そして、古武井までの延長請願書は貴衆議院両院で可決されている。
昭和17年といえばラジオや新聞(大本営発表)は日本軍の連戦連勝を報じており、戦況の悪化・日本の敗戦など思いも寄らなかった。汐首岬・瀬田来のアーチ橋完成を目(ま)の当たりにしており、汐泊川に鉄橋が架かり汽車が走るのはもう真近と考えていたと推察する。
しかし、人々が戦況悪化、労働力・資材不足、そして軍事的に不急鉄道、あるいは不用鉄道である事を知るのに、それ程時間はかからなかった。この鉄道が、再び日の目を見ることがなかったことは前述のとおりであるが、現在でも、こう話す人は少なくない。
「もし戸井線が古武井まで通っていたら、私も函館の高校へ通うことができたのに」