宗 派 曹洞宗、本尊・釈迦牟尼仏
函館市船見町、曹洞宗『高龍寺』末寺 総本山福井県永平寺・横浜市総持寺
沿革 高聖寺の創立は、初代住職芹田天隨の自叙伝によれば、明治30年5月、古武井村墓地内の地蔵堂に居住して布教活動をしたことに始まる。以下、その自叙伝をもとに高聖寺の沿革を記す。
明治のころ、戸井村字小安村に「能化庵」という函館高龍寺の末寺(現在の広福寺)があった。当時の高龍寺は僧侶の人数が少なく、「能化庵」には住職を派遣してもらうことができず、ときどき布教師が訪れるだけであった。
能化庵の再三の要請に、高龍寺の常任布教師大道弾隨は、秋田県の(曹洞宗の)宗務支局取締北村亮仙に僧侶の派遣を依頼した。北村師は、その任務を芹田天隨に命じた。
明治29年(1896)3月海を渡って函館高龍寺にやってき芹田天隨は、4月より、早速「能化庵・住職代務」として寺務・布教活動に努めた。ところが翌年3月、広川という僧侶が能化庵の住職を強く希望したので、芹田は、その職を広川に譲り、高龍寺に戻り布教活動に励んでいた。一方、芹田師の話を伝え聞いた古武井村の信徒らは、部落会を開き芹田氏招聘を決議、代表として高龍寺へ斉藤吉五郎を派遣する。芹田は、部落・斉藤の熱意を感じとり、その願いを快く引き受ける。
明治30年(1897)4月、芹田天隨は、尻岸内村字古武井村55番地斉藤吉五郎宅へ籍を移し、翌月より村の墓地内の地蔵堂に寝起きし日夜布教に努める。住民は曹洞宗と他宗門信者が半々であったが、芹田は一村に1つの寺をと考え、自宗信者より他宗信者の家をよく回り布教に努めた。当時は戸数100戸にみたない村ではあったが、豊富な硫黄鉱が発見されており、明治34・35年鉱山が開山され、鉱夫ら続々と入稼する。
しかし、当時の古武井村には火葬場はなく、190坪ほどの各宗共同の墓地(古武井村62番地)があるのみであった。芹田は村の主だった人達と相談し、千坪余りの墓地と10間四方の火葬場の新設を、明治36年5月戸長役場に出願、10月許可を得る。芹田は各宗共同墓地をこの新設の共同墓地敷地に移動し、共同墓地・火葬場の管理者に委嘱される。芹田はさらに、本堂建立のため信徒や村人の協力を得、苦心の末1千坪余の畑を入手、うち800坪を本堂建設の境内とし整地する。
・明治36年(1903) 戸長役場古武井に移転。鉱山の操業により人口も年々増え続ける。
・明治39年(1906)5月 『高龍寺法務所』を新設する。
・大正4年(1915)10月28日 大正御大典記念事業として、法務所施設1ケ棟を増設し、『龍穏山高聖寺』と寺号公称を願出、許可を得、新寺を創立する
・昭和3年(1928)8月 高聖寺本堂を建立する。
高聖寺
大正7年(1918年)渡島町村誌より
昭和30年頃の高聖寺(尻岸内町史より)
高聖寺(平成17年撮影)
曹洞宗(宗教編資料2 仏教の宗派参照)
高岸寺の項、参照
古武井共同墓地 古武井の共同墓地については、古武井硫黄鉱山(押野・山懸、のち三井鉱山経営)の操業を考慮しての設置と推察される。この鉱山は明治34~大正7年操業、最盛期は鉱山で働く人、千700人、規模・生産量、東洋一の硫黄鉱山とうたわれ、当時の鉱山の労働や生活状況から推察し、相当数の事故死や病死が予想されて当然であった。明治45年1月現在の共同墓地の図面に記された鉱山埋葬地の現状は、「左側・109名埋葬し空地なし」「右側・57名埋葬し10坪ほどの余地あるのみ」とある。
朝田鉱山雪害横死者之碑 境内にあるこの碑は、明治41年3月8日、古武井硫黄鉱山雪崩と火災が発生により死亡した人達、男11名、女18名(他に重傷者4名)を供養する碑である。被害を受けたのは逃げ遅れた子供か老人が殆どで、この悲惨な事故は全国的に報道され、宮内庁から北条侍従が北海道警察米田戸井分署長・山上警視を伴い視察に訪れ、明治天皇より罹災者家族に見舞金が下賜された。
朝田鉱山(古武井鉱山)雪害横死者の碑
(明治41年3月8日)
住 職
現住職 三世 芹田幸典 昭和36年~(芹田天隨、昭和25年4月還化、同36年5月まで無住職)
二世 芹田天隨 昭和19~同25年4月
開山 芹田寛隨 明治30~昭和19年
境内の富美丸観音像について
境内に富美丸事件の観音様と呼ばれる石像の観音像が安置されている。台座の御影石には次のように刻まれている。
中村三太郎三三才、新出新太郎三五才、越後谷喜一郎三四才右三名は、昭和八年六月十五日露領カムチャッカ東海岸オングル岬において遭難死亡し、死体は現場にて水葬せり。よってその冥福を祈らんがため遺族相はかり本像を建設したるもの也。
昭和九年六月 一周忌の時
中村フジノ、新出カヨ、越後谷フジ
しかし、この事件の真相は次のようなものである。
大同漁業会社所属の北洋鮭鱒独航船富美丸乗組員が、荒天でソ連領の島に上陸したため、ソ連兵に射殺されたのが事実である。これは明らかに国際法上の違反であり、日本はソ連に厳重に抗議し不法を認めさせるも、当時の日ソの国際関係から、被害者に対する賠償等はなかったと推察される。
[図]