この33体の観音像は、恵山火口原が古くから霊場(賽の河原)として参拝に訪れる人も多く、また、高田屋の十一面観音像をはじめ地蔵尊などが建立されていることから、昭和10年(1935)、恵山観光の振興を目的として発足した尻岸内村保勝会が、隣村椴法華村(これを契機に椴法華村も保勝会を結成)に呼び掛け、恵山の霊山観光の一環として仏教関係者の賛意を得、村内外の信者・賛同者の寄進を受け設置されたものである。
高田屋嘉兵衛建立十一面観音像 文化6年(1809)(1)
高田屋嘉兵衛建立十一面観音像 文化6年(1809)(2)
以下にその寄進者を記す。
三十三体観音像寄進者
1 下海岸自動車松岡 2 函館市〓飯島治三郎
3 古武井〓福沢・恵山 大坂 4 恵山〓大坂キミ
5 古武井〓沢村・ 福沢 6 函館市山崎健三
7 古武井〓伊勢勝太郎 8 恵山〓吉岡善作
9 函館市久保ヤエ・同 庄司豊造
10 恵山司笹田セキ・同 松浦キミ
11 大澗〓野呂 12 下海岸局務自治会
13 函館市松田千太郎、上磯町桶田耕治
14 函館買炭商店 15 豊国寺観音講
16 高聖寺観音講婦人会 17 湯川〓丸玉自動車商会
18 戸井村司宇美第吉 19 瀬田来〓吉崎岩吉
20 高岸寺観音講 21 尻岸内役場出稼組合
22 戸井村種田キン・高田エツ・吉村キヨ
23 〓谷藤スエ 24 〓山本モヨ
25 日浦地蔵講 26 古武井〓斉藤留五郎・同〓同キヱ
27 禅龍寺観音講一同 28 女那川地蔵講一同
29 椴法華中村小玉 30 古武井 沢村・同 管野
31 日浦〓松本専一郎 32 〓吉岡キワ・山田キミ
33 下海岸自動車松岡
当時の巡礼(山開き)の情景を、新聞は次のように報道している。
尻岸内村恵山三十三番観音山開き
(函館新聞 昭和15年(1940)5月16日付より)
尻岸内村恵山保勝会が数年前、恵山登山口より頂上に至る順路に沿い、西国三十三番の観音様を建立したるが、新緑正に滴らんとし木々の新芽若芽に風薫る、来る五月二十三日(恰も旧四月十七日の釈尊降誕の日)を卜して山開きをするに決定し、村内の善男善女は勿論、一般の団体的参詣を希望すると、更に村外よりも参詣を切望すると尚、参詣の便宜を計らい、当日は午前八時恵山グラウンドに集合し、携帯品は豊国寺で預かり、一同は参詣しつつ登山して行く計画にて、最終の三十三番の観音堂にて、僧侶約七人の読経勧修と支那事変出征軍人の武運長久祈祷を行うものにして、有名なる山開きなりと。亦、付近には原田、中村、石田の三温泉有り、信仰参詣を兼ね休息し一日を慰やするも意義ありというべし。
昭和42(1967)年5月 三十三番観音山開 (函館、中目雅博氏撮影)
御咏歌(三十三番観音巡礼歌)
恵山の33体の観音像には、設置当時から一番から三十三番まで、仏や霊場をたたえる歌(和歌)が添えられており、これらは古くなる度に書き替えられてきた。現在のものは平成16年信者有志らの手により製作されたものである。観音参りの巡礼者は、この和歌・和讃に単調な旋律をつけ鈴の音を伴奏に歌いながら、一番から順番に巡礼をする習わしがあり、それは現在も続いている。以下に、その御咏歌の幾つかを記すこととする。
第一番
ふたらくや きもうつなみはみくまのの なちのおやまに
ひびくたきつせ
第九番
はるのひは なんえんどうにかがやきて
みかさのやまに
はるるうすぐも
第一三番
のちのよを ねがうこころはかろくとも
ほとけのちかい
おもきいしやま
第一七番 おもくとも いつつのつみはよもあらし ろくはらどうへ
まいるみなれば
第二五番
あわれみや あまねきかどのしなじなに なにおかなみの
ここにきよみず
第三三番
いままでは おやとたのみしおいずるを ぬきておさむる
みののたにぐみ
[図]
[図]
高岸寺の三十三番観音
高岸寺境内に、大観音像を中心に左右に33体の観音像が並んでいる。これらは昭和8年(1933)、豊浦の伊藤東作が中心となり高岸寺の裏山寺の沢に安置したもので、沢一帯の土木工事のため昭和62年(1987)、現在地に遷座したものである。この観音像の石材は七飯石を用い33体すべて、一番、紀伊国青巌渡寺・如意輪観世音菩薩(寄進者、尻岸内村 伊藤つね)、二番、紀州金剛宝寺・十一面観世音菩薩(寄進者、尻岸内村 佐々木・野村ウメ)、二十二番、摂津国総持寺・千手観世音菩薩(寄進者、函館市 白畑石代)、二九番、丹波国杉辰寺・(寄進者、東京市、キリ印生盛薬剤株式会社)などのように、全国の名刹の観音像を模し製作された見事な作品である。寄進者は、村内はもちろん、函館をはじめ全国にまで及んでいる。尚、中央の大観音像は三国末光ら446名の賛同者を得て、平成元年(1989)に建立したものである。