現在戸井に居住している人々は、何代か前に本州或は道南各地から移住した人々の子孫である。古い家で六、七代目であり、二、三代目という家も相当ある。古い家程、同じ部落内に分家がたくさんある。同一姓の多い一族の本家程代を多く重ねている。
本州では富山、新潟、山形、秋田、宮城、福島、岩手などの諸県からの移住者も若干あるが、最も多いのは昔津軽、南部といわれた青森県からの移住者である。この外近江の国から来たので近江屋と称した〓宇美家、水戸の国から来たので水戸屋と称した水戸家、九州から来た稲吉家、淡路島から来た田浦家など全国各地から移住して来てている。
道南では松前地方や亀田地方からの移住者も若干ある。道南地方から戸井に移住した人々も何代か前の先祖は、津軽、南部の移住者が多い。
総括的にいうと、津軽、南部と称した青森県からの移住者の子孫の数が最も多く、戸井の住民の大半を占めている。南部のうちでも戸井の対岸である大間、佐井、風間浦、大畑、東通(ひがしどおり)などの町村からの移住者が最も多く、これに次いで多いのは東津軽、北津軽、南津軽の三郡である。したがって戸井の人情、風俗、習慣、言語、年中行事などは南部や津軽と共通な面が多い。
どのような動機や事情で戸井に定住するようになったかを分類して見ると
①津軽、南部の天明、天保年間の度重なる大飢饉に、食を求めて渡航し、そのまま定住した者。
○『天明凶歳録』によると、天明三年十月から翌四年八月までに、奥羽地方から他国へ転退した者が、八万余人もあったという。
○天明五年八月十九日、菅江真澄が目撃したことを書いた『外が浜風』に 「浜路を行ってうとうまいのかけけ橋を見物に行こうと出かけると、鍋や釜を背負い、いろいろな家財道具を持ち、幼ない子を背負ったり、少し大きな子の手を引いたりした男女が、道もあふれる程こちらへやってきた。これは地逃(じに)げするといって、飢餓(きが)を恐れ、一家をあげて、ほかの国へ逃げて行くのだという。この人たちの話を聞くと「前の(天明三年)飢饉の時は松前へ渡り、そこの人たちに救われました。これから私たちは作(さく)のよかった地方を尋ねて行くのです』といって去って行った」と書いている。
○寛政五年五月一日、菅江真澄が『奧の浦々』に「宿野辺(すくのべ)から川を渡り、広い野を過ぎて桧川(ひかわ)を渡ると村の跡がある。世間の騒がしい年(天明三、四年の飢饉の時などか)住民がみな逃げ退き、松前の島わたりしたので、むなしく平所(ひらどこ)という地名ばかりが残っているという。
このように、天明、天保などの大飢饉の時は、一家、一部落が地逃げして蝦夷渡りをした例が多かったのである。真澄が「松前へ渡り」とか「松前の島渡りをした」と書いているのは「松前」という地名を指しているのではなく、津軽南部の人たちが「松前」というのは「北海道」をさしているのである。
②昆布、ブリ、マクロ、イワシ、サメなどの漁期に、南部、津軽、松前方面から出稼ぎにくることを繰り返しているうちに土着した者。
○出稼ぎにきているうちに定住することになって、妻子を呼び寄せたり、独身の男が聟養子になったり、独身の女が嫁になったりして定住した。
③ブリ、マクロ、イワシの大漁の続いた頃商売に来たり、石屋、大工などの職人として来ているうちに定住した者。
④本州の二男、三男が景気のよい戸井に来て、一旗あげて故郷へ帰ろうと考え、暮しているうちに戸井に土着したという者。
⑤明治維新の廃藩置県の変革に遇い、俸禄を離れた松前、津軽、会津などの諸藩の武士が仕事を求めて定住した者。
大体以上の事情や動機で戸井に定住し、その子孫が戸井に繁殖したのである。
古記録に下海岸の戸数を調査して書いたものが若干あるが、その中に「小安から家(○○○)何軒、釜谷から家(○○○)何軒」などとあるのは、漁期が終って出稼ぎ人が帰った時の調査で、この頃は定住する者が少なかったものと思われる。出稼ぎ人が定住したのは、古記録で判断すると汐首岬から西部の部落が早く小安神社が創建された頃である。汐首岬以東はこれより相当後で、それぞれの部落に、神社が創建された頃と思われる。
奥羽地方は、天明、天保年間以外にもしばしば飢饉年(ききんどし)があり、その都度小集団で渡航して来たことは諸記録によって明らかである。戸井は下北地方とは一衣帯水の間にあり、晴れた日には対岸の山々が間近に見えるので、飢饉の度毎に曽(かつ)て出稼ぎした戸井へ食を求めて渡航したことが想像される。又以前から移住定着している親戚や知人、或は同郷人を頼って渡航し戸井に土着した者も相当あっただろう。
景気がよくて、おおらかな戸井へ来て、一旗あげようとか、一攫千金を夢見て渡航し故郷に錦を飾ろうと考えて来た人々で、事(こと)志と相反して戸井に永住した者もあるだろう。
禄を離れた藩士が移住した場合は、明治以後で、割合時代が新しいので、戸井に移住してから古くて四、五代より経ていない。
いろいろな事情や動機で戸井に移住し、土着した人々の分家が同一部落や隣接部落に増加し、その子孫から更に分家が出、隣接町村や本州の出身地などから嫁をもらいなどして次第に戸口が増加して、今日の戸井町に発展したのである。
開村以来の旧家は、代を重ねるにしたがって、村内に分家がふえ、婚姻(こんいん)によって結ばれた縁戚が網の目のように広がり、旧家は村中親戚というような状態になっている。