松前家が蝦夷地を領有していた時代は、稲作不能な地であったので、幕府は表高一万石格の大名と認定していた。本州、四国、九州の諸藩と異って、昆布、鰊、鮪などの水産物の収益によって藩を経営した純然たる漁業藩であったので米に換算すれば十万石にも二十万石にも匹敵する富裕な藩であったのである。この松前藩が従来の禄高に相当する梁川(やながわ)に移封されたため、漁師が急に百姓になった状態になり、収入は十分の一にも満たなかった。
梁川に移ってからも、藩主や重臣たちは幕府の要路の人々に機会ある毎に、松前への復帰を懇請したのである。この悲願が二十二年目に実を結び、文政四年(一八二一)十二月七日に、幕府は蝦夷全島を再び松前家に返還することを決定したのである。松前家は藩主、重臣を始め家臣一同、再びなつかしい故郷に帰れると歓喜して梁川を引き揚げて、松前に帰ったのである。
松前家が梁川から再び松前に復帰した文政四年から嘉永六年(一八五三)までの三十三年間を松前時代後期とした。黒船来航によって、安政元年(一八五四)再び幕府の直轄地になるまでの時代である。
松前家の松前復封後、外国船の来航が益々頻繁となり、天保時代は奥羽地方が連年の大凶作に見舞われ、未曽有の大飢饉に襲われ、内外多事多難な時代であった。
幕領時代前期の二十二年間に亘って発展した漁業、海運、道路は松前藩の保守的な姑息(こそく)な政策により、その発展は停滞(ていたい)し、漁業は衰退し、海運は不振となり、道路は荒廃に帰したのである。制度については幕府直轄時代のものをそのまま踏襲(とうしゅう)した。
この時代になってからの十年間が高田屋の全盛時代であった。蝦夷地のこの時代の漁業と海運の衰微をくいとめたのは高田屋であったのである。高田屋嘉兵衛が家運隆盛の基礎を確立して、文政元年(一八一八)郷里淡路島に隠退し弟金兵衛に後を継がせた。高田屋金兵衛は、ロシヤとの密貿易の嫌疑を受け、天保二年(一八三一)江戸に召喚(しょうかん)されて幕府の取調べを受け、天保四年(一八三三)すべての持船及び財産を没収され一挙に没落するまでの高田屋の全盛期における東蝦夷地やエトロフの繁栄は高田屋兄弟の力に負うことが甚大であったのである。高田屋没落後、東蝦夷地の漁業、商業、海運が急速に衰微し、松前藩も他の豪商たちもその衰退を防ぐことができなかったのである。
又この時代で特筆すべきことの一つは、馬の自然繁殖が盛んになったことであり、馬がこの時代の交通運輸に大きな役割を果したということである。安政元年(一八五四)の調査では、各場所の備馬の数は五・六十頭から二百頭に及び総数一八〇〇余頭に達していた。
この時代の終り頃から黒船が来航して惰眠(だみん)をむさぼっていた太平の人々の眼を覚まし、開港か壊夷かの論争が巻き起り、止むなく下田、箱館の二港を開港し、近代文明への夜明けを迎えたのである。