アイヌ語か日持か

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 永田方正は『北海道蝦夷語地名解』の中で、「今椴法華村と云フ日蓮宗ノ僧侶始テ此処ニ来航し、法華宗を開キシ処ト云フハ最も愚ナル附会説ナリ」としており、須藤隆仙は『日本仏教の北限』の中で、「日持がエゾ地へ渡ったということを史実として取り上げるには、いま少し決定的な史料がほしいと思っている。北海道内に残る彼の遣跡など、全くもって伝説の域よりでぬし、エゾ地渡来説の出典があいまいだからである」と述べている。
 また他の史料で調べた範囲では「トト」または、「ホッケ」「ボッケ」という発音がなされる地名は、北海道内においては二、三見うけられる。しかも椴法華以外は「ホッケ」のつく地名は、町村名又は字名としては使用されていない。
 (例)
 ススポッケ  上磯郡泉沢村(寛文十年頃使用)
 フルボッケ  虻田郡後志川上流(明治時代使用)
 ランボッケ  虻田郡登別町(明治から昭和年代使用)
 音江法華   余市郡   (明治時代使用)
 椴川村    現江差町の一部(江戸時代から明治二年まで)
 海馬(トド)岩 恵山岬付近の地名(江戸時代より使用)
 大椴     現小平町(昭和十年から三十一年使用)
 
 中でも「ボッケ」のつく地名は、いずれもアイヌ語又はアイヌ語と日本語が結びついたものと考えられ、而もこの種の地名は、現在椴法華村以外に町村名あるいは字名として使用されていないが、昔はもっともっと使用されていたものと推定される。
 更に『鶏冠石の由来書』には、日持が満州を目ざして椴法華より出発した。このことにより地名を「渡唐法華」とよぶようになり、のちに「椴法華」と書くようになったとあるが、椴法華の地名が最初に見られる資料は、元文四年(一七三九)ころの『蝦夷商賈聞書』であり、「トトホッケ」とかたかなで記されている。漢字で書かれた最初の資料は、寛政十二年(一八〇〇)の『鈴木周介アツケシ出張日記』で「椴法花村」と書かれてある。古い資料で「渡唐法華」と書かれたものは、現在一点も発見されていない。
 以上のような史料の考察から「トドホッケ」という地名は、アイヌ語に由来するものであろうと考えられる。なお椴法華というのは現在の元村地域を示した地名である。