椴法華村は南側に恵山が噴煙をただよわせている。さして高くはないが活火山で熔岩の山肌をむき出しにしている。記録はさだかでないが幾度となく噴火していた。渡島半島の東南にある恵山の噴出物は、北海道火山灰命名委員会の調査によると駒ヶ岳が噴火した寛永十七年(一六四〇)と天明四年(一七八四)の間に二度降灰している。分布は椴法華から戸井と川汲を結ぶ範囲内である。矢尻川、古武井川一帯には寛永十七年の駒ヶ岳噴出物である火山灰が覆っている。このときの大噴火は被害も大きく記録に書かれているが、恵山噴火は小規模であった。
椴法華の記録に書かれていない遺跡は、この火山灰に埋れている。まだ、どれだけの歴史遺産が埋れているか知れない。人が生活して残された所を遺跡と呼んでいるが、そこから出土する物について述べるまえに、地層のことをお話しておきたい。何万年前とか何千年前の地層は、火山灰が重なっていることが多い。海岸や河川の近くでは、火山灰の間に海や川の砂層が入っている。駒ヶ岳火山噴出物層の間に恵山噴出物の火山灰が入っていることも地層でわかる。丘陵や畑地を掘ってみると黒い土が上にあって、さらに掘ると黄褐色の土が下にある。普通赤土と呼んでいる粘土質の土である。この土の断面を上から下まできれいにして観察すると、そこに何層もの色や粒子、粘着力の違いによる層が重なっていることがわかる。この細分された地層が、歴史を物語る地層で、物が出土したとき、そのどこの層から出たかが重要な手がかりになる。普通、道南地方では下の赤土から出土した石の道具ならば、洪積世で約一万年前、赤土の黒土の境からならば七千年から一万年近い年数がたっているとみてよい。縄文時代より新しい時代の住居とか墓があって赤土の粘土を掘り込んでいることもあるが、この場合に土層の断面を注意してみると切り込んだ底が線を引いたようにはっきりしている。赤土の上の黒土の層をよくみると赤褐色や灰褐色の薄い火山灰層があったり、そのどこかに海の砂が層をなしていることがある。火山灰層の間にある海の砂の層は、自然の地層の場合海水が浸入して砂が運搬されたことになる。砂質の地層などに貝殼や骨が埋蔵されているとき、自然の場合と人間が持ち運んだ場合がある。人が持ち運んで捨てた貝の堆積を貝塚と呼んでいるが、その貝で当時の海岸が砂浜であったか、岩礁地帯であったか、海水温が何度ぐらいであったかがわかる。獣骨、鳥骨、魚骨の種類によっても当時の生活環境を復元することができる。
人が生活した場所で痕跡を残している所を遺跡と呼んでいる。集落跡には住居、貯蔵庫貝塚などが一定の範囲にある。墓地も単独で存在するときと、ある墓域をもっている場合がある。南茅部町の臼尻遺跡や函館の日吉遺跡のように石を敷いた地域があって、中心部に環状に立石を配列して、墓壙壁と墓壙の床に石を並べているものもある。ストーン・サークルと呼んでいる。また、丘陵の先端部や比較的高い見晴のよい海岸や河川流域に溝や壕をめぐらしたところがある。アイヌ語ではチャシと呼ぶが、一種の砦や要塞のあったところであったり、海などの見張り場がのこっていることもある。このような所から石器と呼んでいるいろいろな種類の道具や土器などのほか、鉄の刀や陶磁器などが出土する。刀など錆びて形がわからなくなっていることもあるが、アイヌが用いた刃先の短かいマキリとか、鉄製の矢じりなどが残っていることもある。数千年間にわたる生活用具には、いろいろな物がある。毛皮製品、木製品もあっただろうが、土の中に埋れるとよほど条件のよいところでないと残らない。泥炭層のように地下水が常に流れている遺跡では、植物の纎維で加工した物や木製品がそのまま保存されていることがある。このように残された遺物から生活文化を調べていくことができる。