明治九年

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・一月十七日 『府縣布達』により尾札部村(本村)より分割され、椴法華村として一村独立する。
 
  〔九年〕 一月十七日府縣布達
   當使管下渡島茅部尾札部村ヲ分割左ノ通村名相設。
    從來本村      尾札部
    尾札部村支村    椴法華
 
・三月 佩刀(はいとう)(刀の所持)禁止令が出される。
 椴法華村では當時、士族階級が存在していなく、江戸時代よりいわゆる二本差を認められた武士は存在していなかった。また元の農民・職人・商人などに許されていた道中差(一本だけ譲身用として所持する)姿の者も見られなかったようである。しかし本州方面では、旧武士階級が武士の特権を捨て切れず刀を持ち歩き、種々の問題を引き起し遂にこのような法令が出されることになったものである。
・四月十八日 椴法華村、従来三名の村用掛を一名に減らし、佐々木弥三郎を副戸長兼村用掛とする。
・五月二十五日 開拓使茅部郡役所戸井出張所を戸井分署と改める。
・七月十六日 明治天皇、明治丸で青森より函館へ御着。
・七月二十日 恵山硫黄自然発火し、椴法華・根田内住民を驚かす。
 『明治九年(函館支庁)管内各分署復往』によれば、この時の様子を次のように記している。(要約)
 
   右惠山ノ内ニ釜ト唱ヘ平常白煙立登リ候ケ所之内過ル廿日午後一時頃俄然黒煙ノ起ルヲ同所硫黄製法場稼之者見當リ不思議ニ存居候由之處同日午後六時過日沒ニ相成候ヘバ前時黒煙ト相見ヘ候ハ則火光ニテ激烈ニ炎上致候ニ付一同恐怖周章之上早々下山根田内ヘ報知候ニ付同所及椴法花ヨリ早速人夫弐拾人ツゝ差出消防方尽力候ヘ共何分絶壁ニテ人力難及同廿一日払暁頃ニ至リ硫黄焼流シ火光方壹丁程ニ蔓延致候由ニ候ヘとも(ママ)敢テ鳴動沙礫等ヲ雨(ふ)ラス景状ハ無之左スレハ噴火ニハ無之様相見ヘ全ク炎天打続キ候上太陽炎威ニテ土石ヘ含有ノ硫黄煩熱自然天火相移リ候義ト相見ヘ申候。(以下略)
 
 このあと火勢黒煙は次第におとろえ二十二日正午頃平常の白煙のみの状態にもどる。
・九月八日 大小区改正され、椴法華村、第十八大区一小区茅部郡所属となる。
  第一小区所属村
 椴法華村・尻岸内村・戸井村・小安
・この時、第十八大区に一名の戸長と第一小区に四名の副戸長が配置される。(函館支庁管下の亀田郡・上磯郡・茅部郡・山越郡の四郡では、四月十八日に副戸長が任命されている。また椴法華村では、副戸長兼村用掛に佐々木弥三郎が任命されていた)
 なお第十八大区一小区の四村は、茅部郡森区務署に属することになったため、役所の書類・願い・伺い・届出などには、はるばる森村まで出向かなければならなくなり、住民生活に大変な不便を与えることになった。
・十一月十一日 開拓使鹿猟規則を定め乱獲を防ぐ。
・十二月二十八日 太政官布告により、北海道の地租が地価の百分の一と定められる。
 地租というのは土地の価格を政府が決定し、その地価を基準として田畑租を金納するという内容のものであった。その率は全国的には百分の三(明治十年一月四日からは百分の二・五)北海道は未開地が多く開拓途上であるということから百分の一と定められた。なおこの税率は豊凶によって増減は認められなかったため、凶作の年は大変な負担となっていた。
 明治時代の国家予算の大部分はこの地租によってまかなわれており、近代国家建設の重要な財源となったが、その後ろにかくれた庶民の労苦を私達は忘れてはいけないように思う。
・十二月 開拓使洋式暖炉(だんろ)の使用を奨励する。
 現在でいうストーブの一種の使用を各官庁・学校・病院その他一般に奨励する。この時役所・病院等で一部利用された所もあったが、ストーブは高価な物であり、石炭もまた輸送の関係で簡単には手に入りにくく且つ高価であったため、一般ではほとんど使用されなかった。椴法華村では暖を採ったり炊事をするためには、薪を燃やしたいろりやかまど、その他暖を採るための火鉢・あんかなどが使用されていた。
・いろり
 この頃の民家では、たいてい居間の中央に四尺に六尺の長方形の『いろり』が設けられているのが普通であった。
 いろりの天井からは、鉄製・真鍮製・木製などの自在鈎をさげ、南部鉄びんや鉄鍋などを吊し湯を沸かしたり物を煮たりなどしていた。いろりの上方には火棚が作られ、魚や濡れた衣類・はき物・漁具などが乾かされており、火の周りでは串にさした魚が焼かれたりすることもあった。
 また炉周辺には黒・白・赤味がかかったような光沢のある石が、炉砂利として入れられ時々掃除するのが主婦の役目であった。
 この炉を取り囲んで家庭の団欒(だんらん)を持ったり、客人を持てなしたりなどしたが、家族らの座る場所が家々によってほぼ定められていた。
 神棚を背にして座る場所は『横座』といわれ主人の座る場所、台所に近い方の席が『女座(かかざ)』といわれ妻の座る場所、その下側は子供達の座る場所、妻の座る場所の向い側は『客座』といいお客さんの座る場所とされていた。