前にも記したように、十四世紀後半、蝦夷地南部に居住するアイヌ人は、自ら漁業を営み、交易のため十三湊方面へ行き、あるいは本州より来航する和人船と交易を行っており、これらのことは、アイヌ人の生活にとって欠くことのできない仕事であった。しかし十五世紀初頭より蝦夷地南部に進出し館を構築した和人勢力は、次第にアイヌ人が古くから持っていた漁業権や交易権を奪うようになった。このことは、アイヌ人の存亡に関わる大問題であり、何かの切っ掛けがあれば、和人勢と大衝突を起こす要因となっていた。
『北海道旧纂図絵巻一』(函館図書館蔵)は、(信憑性に問題のある部分もあるが、他書に見られない事項や裏面史的な面まで記されているため、研究の参考として記す。)下海岸地域のアイヌ人の蜂起について次のように記している。
・康正元年(一四五五)春三月小安村字セマタラの蝦夷蜂起
・康正二年(一四五六)蝦夷蜂起し人民滅す。
・長禄元年(一四五七)四月志苔村蝦夷蜂起。酋長名大将三百五十余人諸々に襲来、我が藩士より、小林良景、南条季継、佐藤季則、長門藤六広政、三関久時、北村重綱、遠山左仲友政等を大将として引卒者八十余人打戦う。
・文明元年(一四六九)八月十二日、尻岸内蝦夷蜂起賊夷遠惣利の流矢政道に当り戦死
・永正八年(一五一一)四月志苔村蝦夷乱をなし同月十六日与倉前に蝦夷襲来、賊夷長関飛(セキビ)の為に二代目河野弥二郎右衛門尉季通戦死
・永正八年(一五一一)四月志苔村蝦夷長名奢那(シャナ)蜂起
以上のように記した『北海道旧纂図絵』の和人とアイヌ人の抗争が全て事実かどうか疑わしい部分もあるが、『新羅之記録』に記されなかった、和人とアイヌ人の小さな衝突は各所に多数あり、この記事は、その時の痕跡が含まれているものと推定する。