開拓使を開設するにあたり明治新政府は、明治二年六月鍋島直正中納言を開拓督務に任じ準備にあたらせ、明治二年七月八日開拓使設置に伴い七月十三日鍋島を長官に任じた。(明治二年八月鍋島は病気のため辞任し、後任には東久世通禧が開拓長官となる)つづいて同月二十四日前箱館府知事であった清水谷公考を次官に、(同年九月十三日辞任)島義勇・岩村通俊・岡本監輔・松浦武四郎・松本十郎・竹田信順を開拓判官に任じ、いよいよ北海道開拓に本腰を入れることになった。
それで開拓行政の最初の仕事は、当時日本の国郡の中に含まれていなかった蝦夷地を日本の国郡の中へ組み入れ、名称を適切なものに変更することであった。このため開拓使は松浦武四郎に国郡制定の研究を命じ、その意見を容れ蝦夷地を「北海道」と改称し、十一国八十六郡を制定することを明治二年八月十五日の太政官令を以て公示し、これを受けた開拓使は同年九月二十四日付の触書に依り、この事を開拓使管下の住民に伝達した。
觸書
此度蝦夷地一円、北海道ト称シ、拾壱ヶ国ニ分チ、開拓使相建、総テ御政令、御摑行相成候条、此段相達候事
開拓使
九月二十四日
この時設けられた国名と郡名は次のとおりである。
渡島国 (七郡) 後志国 (十七郡)
石狩国 (九郡) 天塩国 (六郡)
北見国 (八郡) 胆振国 (八郡)
日高国 (七郡) 十勝国 (七郡)
釧路国 (七郡) 根室国 (五郡)
千島国 (五郡)
合計 十一ヵ国・八十六郡
なおこの時、渡島国には、亀田・茅部・上磯・福島・津軽・桧山・爾志の七郡が置かれ、このうち亀田・茅部・上磯の三郡は開拓使の直接支配地とされた。