中央集権国家の完成及び国民掌握をめざしてきた新政府は、明治五年に至り戸籍編成と大小区の行政区画制度を実施することにしたが、開拓使もまた政府のこの方針を受け、明治五年一月「壬申(じんしん)戸籍」(壬申の干支(えと)の年に作られたのでこの名がある)を編成し、更に大小区画制度を実施することにした。(椴法華村の「壬申戸籍簿」は現在迄発見されていない)
函館支庁は明治五年二月函館を三大区十五小区に分け、戸長及び副戸長を置き翌六年五月には、亀田・上磯・茅部・山越の四郡に大小区を実施している。
『北海道志上』によれば、茅部郡について次のとおり記されている。
六大区 茅部郡一小区一ヨリ三ニ至ル村十四
一小区 小安村 戸井村 尻岸内村 尾札部村支郷椴法華村
二小区 熊泊村 尾札部村 臼尻村 鹿部村 砂原村 掛澗村
三小区 尾白内村 森村 鷲木村 落辺村