亀田郡編入運動(二)

367 ~ 370 / 1354ページ
 前に記したように、明治十四年七月、小安村、戸井村、尻岸内村、椴法華村は長年の夢がかない茅部郡より亀田郡に編入され、行政上、住民生活上、以前に比べ便利になったが、これに影響を受けた茅部郡により郡村組替願が函館県に提出されている。
 この時茅部郡の郡村組替願は、函館県令時任為基の認めるところとは、ならなかった。(なお明治十五年六月の茅部郡村組替願は三県時代の出来事であるが、亀田郡編入運動の(2)としてこの部分に記す。)
茅部郡村組替願」北海道大学蔵(鹿部村・銭亀沢村書類中に含まれる。)はこの時の様子を次のように記している。
 
   茅部郡村組替願
     郡村組替願
   當茅部郡ノ地形帯縦ニシテ一條ノ連山ヲ以テ亀田郡ト界シ陸地ノ幅員狹隘海濱ヲ廻リテ凾館山ノ後脊ヲ見ルニ至リ然ルニ本郡椵(ママ)法花村以東ハ既亀田郡エ御組替相成候処一層左右ノ適否ヲ以テ又々御組替相成度
   東方 茅部郡ノ内尾札部村支古部ハ亀田郡エ組入
   西方 亀田郡ノ内嶺下村字蓴菜沼ハ茅部郡エ組入
   南北 亀田郡ノ内軍川村ハ茅部郡エ組入
  右ノ通御組替願上候儀ハ一躰ヱサンノ山脉ヲ以テ亀田茅部旧境字鍵〓ヶ峠エ系境ヲ引き亀田郡ト連山ヲ隔シ當郡沿海ノ際タ村落幅員無之地形 細長ニシテ岡ノ方ニハ村戸一モ在ラス単線ノ郡畫ニ有之然ル処昨年中御巡幸
  ノ砌人馬ノ継立ハ行在處ノ驛森村東西十里以外ニ渉リ村々ノ人馬ヲ驅リ集候テ畢境村落ノ位置一片ニシテ公事ノ運上ト雖捗難ク依之處考合仕候処方今共武政ノ御旨意モ有之御太事ノ塲合ニ奉シ郡部ノ地形ヲ取捨シ専ラ便否ヲ計リ尾札部村支古部ノ如キハ不断船ニテ行通ヒ諸事ノ運ヒ不便ヲ極候処椵(ママ)法花村ヨリハ少シク便宜ニ付同所ハ亀田郡エ組入其他沿線ヨリ距離僅ニシ軍川村及宿野辺接近ノ字蓴菜沼ノ人家等ヲ併セ是ヲ茅部郡エ組入人馬ノ寄セ引且ハ人中ノ便利ニ因リ郡部廣袤阡陌ヲ裁テ地理ノ窮屈ヲ緩メ申度郡民ノ情願ニ御座候得ハ前記ノ通御組替被下度一同協議ノ上別紙繪図面相添此段奉願候也。
                      渡島茅部
                         森村惣代
                             吉田福蔵
                         同   松居金治
                      同  砂原村惣代
                             福田佐之吉
                         同   平館太右衛門
                         鹿部村惣代
                             米本甚太郎
                         同   松本要助
                      同  臼尻村惣代
                             二本柳庄三郎
                         同   中村彦四郎
                      同  尾札部村惣代
                             杉谷文治郎
                         同   小田原幸作
                         同   小板久兵衛
                      郡総代
                             川崎吉兵衛
                             梶谷傅吉
                             中村彦四郎
   函館懸令時任為基殿
  前書之趣郡総代及部内村惣代共願出候ニ付取調候処事実相違無之奥印仕候也。
                        茅部郡森村
                         戸長  村山儀助
                        同砂原
                         戸長  青木幹兵衛
                        同鹿部村
                         戸長 高橋松之助印
                        同臼尻
                         戸長  相馬權太郎
                        同尾札部
                         戸長  飯田與五左衛門