昆布関係の税が松前藩の重要な財源であったことは前項で記したが、この税は昆布漁民にとってはかなりの負担であったようである。時代は少し下るが安永八年(一七七九)茅部漁民が、長崎俵物昆布の一手買の不許可・昆布取船の役金の免除を求め強訴していることからでも察せられる。
茅部地方は当時蝦夷地であったが、箱館附近から出稼する者が年々多くなり、中には定住する者さえも出てきた。こうした状況の中で強訴が発生したのであるが、強訴の集団は五月十九日に当時箱館にあった亀田番所(寛保元年《一七四一》亀田から箱館に移転)へ三百人が押しかけ、翌二十日にはこれが五百人にもふくれ上がって談判をした。この時の要求は、
茅部の漁船の中で役金を納めない船が二百四十隻程もあるから、他の者もこれと同様に役金を免除して欲しいこと。更に長崎俵物である昆布の一手買いを不許可にして欲しい。
とのことであった。すなわち一手買いの不許可を求めたということは、特定商人に昆布を一手買い(独占)されることにより、昆布の売価が低く押えられることを恐れたものであり、一手買いが行われると藩の重税の上に更に昆布の売値が安くなり、漁民の生活が根底からおびやかされることになるためであった。
これらの理由を知った時の亀田奉行工藤平右衛門はこれを認め強訴は解散したが、この報告を受けた松前藩はこれを許さず、藩士を使し強訴の内容と関係者を調査し、漁民には昆布の一手買いに絶対反対してはいけない旨をよく命じ、その上で違反しないという旨の証文を書かせた。このため役金は一時免除とされたが、事件後再び徴収されるようになり、工藤奉行は免職・知行地没収の処分を受け、漁民は厳重注意の上、罪を許されようやく事件は終結を見るに至った。
この結果、狭い漁場に多数の漁師が入り、かつ昆布の一手買い・藩の重税とかさなり、漁民の生活はますます困難になっていったようである。