昆布は室町時代ごろからもっぱら内地に向け移出されていたが、元禄年間(一六八八-一七〇四)に至り、少量ではあるが清国へ輸出されるようになり、その後徐々に輸出は増加しつつあった。天文五年(一七四〇)に至り松前藩は幕府の命令により、松前蝦夷地の長崎俵物すなわち煎海鼠(いりこ)・身欠鰊・寒心(ところ)天草・干鮑・昆布・シュリ貝の六品目を長崎に移出することになった。(この年、順風がなく船は箱館に繋がれ翌年ようやく長崎港に着船する)
このことを契機にして蝦夷地の昆布は清国向けの長崎俵物として、以前にも増して需要が増加し、次第にその取扱いもめんどうになっていった。