その後長崎俵物の昆布・煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)は天明五年(一七八五)から長崎俵物会所の直売となり、箱館に会所を設置し会所の役人二人が直接買入れを行うようになった。
当時六箇場所(ヲヤス・トイ・シリキシナイ・ヲサツベ・カヤベ・ノダオイ)の昆布は元揃・大赤・しもの・の三種類に主として製造されたが、なかでも元揃昆布は最高級品とされ、買い入れ値段もよかったが、その検査は厳重なものであった。しかし漁民の中には値段に気を引かれ昆布をほとんど元揃えにしてしまう者が多数あり、また昆布結束の中に乾燥不充分の物や他の海草を混ぜたりなどして、重量を増加させようとする者などが出現し、そのため中には移出後腐敗する物さえ出るに至った。
こうした状況の中で文化七年(一八一〇)昆布の製造は遂に極度に悪化し、信用を失い価格の大暴落を招くに至った。これにたまりかねた箱館の名主や各村の村役人・問屋・漁師の代表が相談の上、元揃昆布の質の向上を計画し奉行へ上申を行った。これを受け入れた奉行は元揃昆布の製法に対する布告を発したが、文化九年(一八一二)になるとまたもや濫造する者が現れたので、官側では以前の布達を守るよう強い指導を行っている。