松浦武四郎の『蝦夷日誌』臼尻村の記事によれば、
臼尻村、人家五十余軒、小商人二、三軒、皆漁者なり、尤旅籠屋も二軒あり、然ども鱈漁の時は随分繁華也。(中略)会所新鱈の時分箱館より在方懸り壱り、下役人弐人出張す。尤金銭回り甚よろし。又此所に新鱈と申隠妓有也。
と記してあり新鱈の時期には大へん景気が良く賑わっている様子がうかがわれる。また同書尾札部村の項では、「一、金六拾両、新鱈冥加、其余は豊凶、右の外鱈釣壱艘に付、弐人乗五束づつ如前」とあり、椴法華村の項では「又此村にも昆布并新鱈帳面等も有べけれども未だ得ざるまま記さず。実に残念と云ベシ」とある。これらの事から次のような事が推定できる。当時の椴法華は尾札部領に属していたことから、尾札部村の新鱈冥加金六拾両の内幾分かは椴法華が分担させられたものであろうと推定される。また、鱈釣船税も尾札部村と同額支払わされたものであろう。更に新鱈の時期になれば、臼尻村へ箱館の在方懸りの役人が三名も出張してきているが、椴法華の村民もそこへ出向き鱈漁の許可を受けたり税を支払ったりしたものであろうか。