大正元年十二月二十八日 函館新聞夕刊(要約)
○椴法華通信(廿五日)
▲大漁と商人入込
本年は烏賊未曽有の大漁加ふるに秋鰮又大漁なりし為め漁夫の切揚けも他村より遅く昨今弗々(ぼつぼつ)歸国の途に就きつゝあるが大漁の結果各地より入込みたる商人は旅店に充満し蕎麥屋に五六の酌婦入込み漁村の實を現出し居れり。
大正元年十一月九日 函館新聞
今年の勘察加や尼古来(にこらい)方面の不漁に引きかへて近海烏賊漁に引きつゞいて鮭も相應に収獲(とれ)てゐて ▲雪が降っても魚市場の賑やかさは一と通りのものではない。(中略)今年は烏賊の當り年で男も女も稼ぎさへすれば、一日三十銭以上の賃金を得られるので、米の値知らずと云う上景気。
・大二年入稼者の増加と不漁
前年からの凶作と不景気、更に大正二年夏は低温となり大凶作が予想されたため、本州・北海道各地より秋烏賊漁をめざして多数の入稼者が来村する。しかし頼りの烏賊は不漁で、その後の鱈漁(値段が良い)でやっと収入を得るような有様であった。
・大正三年
この年もまた前年の大凶作の影響により多数の入稼者が来村、しかし鰮不漁・烏賊不漁で、その上第一次世界大戦の影響により、「するめ」の値が安く、入稼者はもちろん村民もまた窮乏の極に耐えなければならなかった。
・大正四年
この年烏賊大不漁、十二月より鰮好漁となり、村民はなんとかこの年を終る。
・大正五年
昆布豊漁、引き続いて烏賊も大漁となり、「今より三十年前に大漁ありしが其の時に優さる豊漁」と云われ、尾札部より木直に至る部落では最も多く一戸七十梱内外を生産するというような有様となる。この時一梱の時価約二十円として一戸の収入千四百円にも達する。この年椴法華村も烏賊大漁で十七万八千二百十五貫の「するめ」を製造し、二十万二千六百三十円の収入を得る。
・大正六年
椴法華村の秋烏賊漁はまずまずの成果をあげる。
・大正七年
十月、椴法華を中心に根田内、古武井地域で烏賊大漁となり川崎船一隻で四五千尾から六七千尾の漁獲を得る。
・大正十一年
十一月、近海の烏賊大漁となる。当時の新聞の見出しに「柔魚と鱈の大漁、発動機で、東北・東京へ、漁夫のポッポの大入」と書かれるほどになり、更に椴法華方面の様子として、多くは生で発動機船で青森・東北一帯更には東京方面へ輸送され、烏賊漁に従事した漁夫は一人当り四五百円の金が握られ、濡手で粟をつかむようなものであると書かれるほどであった。しかし実際には大謀網で烏賊を獲った親方象は景気がよかったが、川崎船や磯船より使用できなかった零細漁民は、この記事ほど裕福ではなかった。なおこの時尻岸内では一人で二千五六百尾釣りにて漁獲し、十一月八日女那川では十銭に十二尾となるが買人なしという状態であった(大漁のため価格暴落)。
大正10年 烏賊釣船
・大正十二年
この年、椴法華村は水産収入の大部分を烏賊漁で得る。
大正13年 烏賊さき風景
大正13年 烏賊釣船出漁風景
・大正十四年
七月一日から八月三十一日まで椴法華近海の烏賊漁は、前年の三倍といわれる近年稀れに見る大漁となる。このため他地域より出稼人が日に数人ずつ入り込む。函館では八月末烏賦不漁のため、一尾一円から一円二十銭もするような有様であった。このあと椴法華では十一月にも烏賊大漁となる。
鯣生産高
スルメといかの産額