『ジョン・ウイル航海記』によれば、明治三年「横濱に持ち行くべき鱈は、海峡の沿岸の数村により買ひ集めたり。以前に取りて陸にて塩漬となしたる物や、又漁船が只今取りて来たれる新しきものを、直接予の船にて買ひて船の中にて、塩漬となして、保存したるものもありたり。是等は主に恵山岬の北の椴法華村より取りたるなり、これが終るや予等は直ちに横濱に向ひて、こゝを出航せり、」と記されており、この記事より椴法華産の鱈が直接あるいは関接的に船便にて横浜に運ばれていたことがわかる。
また『明治六年戸井往復』(北海道蔵、詳細は海難の項参照)によれば、明治六年十二月十三日十二時ごろ函館より荷物積取(海産物)のため椴法華へ向け航行中の天神丸が根田内海岸において破船したことが記されている。同じく『明治六年戸井往復』には、明治六年十二月二十一日、椴法華へ新鱈積入れのため函館地蔵町梅谷吉五郎に雇われ航行中であった函館大工町小川五助所有元一丸が強風大時化のため椴法華村カジカ岩付近において難破したことが記されている。
更に明治十二年の『賞譽事件綴』によれば、「函館梅ケ枝町平野半次郎持、船号八旭日丸乗組ハ右平野半次郎外水夫三名ニテ渡島國茅部郡椴法華村ニ於テ鰤千三百三拾七本、昆布三百六拾壱個積入去十一月廿八日、該地開帆函館エ向ケ航海之際同日不計モ難風ニ逢イ船柁ヲ損シ航海自由ナラズ……」と漂流の様子が記されている。
また『明治十三年郡区役所戸長役所文移録』によれば、明治十二年十二月二十八日午後二時水産物積み取りのため元椴法華(現在の元村)に入港中の津軽郡油川村瀬戸松三郎所有松栄丸、十六石五斗積が暴風激浪のため難破し、積荷である塩切鰤十石六斗、鰯粕三石七斗五升、元揃昆布三斗五舛、手操昆布一石、鰤鱈取合せ一石八斗の全てが流出してしまったと記されている。
以上のことから外国船、本州船あるいは道内船が椴法華港に出入し、主として海産物の輸送が行われていたが、特に冬季の貨物輸送は非常に危険であったことが知られる。