天保三年異国人椴法華に上陸

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 『通航一覧續輯巻之百四十八・異國部二』によれば、外国船が椴法華に来航し上陸した時の様子を次のように記している。
 
   同三壬辰年七月廿一日東在箱館附六ヶ場所トトホツケに異人六人上陸し、その日退帆せし旨、土人箱館に注進す、よてこれを鞠問し口書を附して届あり。
   天保三年七月廿五日                          松前志摩守御届
   私領分東在箱館附六ヶ場所之内トゝホツケ当(と)申所沖合江去廿一日朝五ツ時頃異國船壹艘〓寄、橋船ニ而異國人廿六人同所江上陸仕候趣箱館江差置候家來共ゟ注進有之候ニ付、早速同所ゟ人數差出候段私居所ヘ申越、直ニ後詰之人數手配仕候處、同日九ツ時頃右上陸之異國人共元船江乘移〓去、追々帆形も相見得不申候ニ付、右異國船見請候始末トゝホツケ村役之者共相糺候書面、今廿五日私居所江相達候間右糺書相添此段御届申上候、已(以)上
   七月廿五日                                松前志摩守
                          椴法花小頭   由五郎 (當辰五十二歳)
                             年寄   半左衛門(當辰五十六歳)
                             惣百姓代 半六  (當辰五十七歳)
                             同    巳之松 (當辰四十二歳)
 
   七月廿一日椴法花場所沖江異國船渡来之節橋船ニ而異國人共上陸いたし候始末有躰不包可申立旨御糺御座候。
   此段廿一日當所御百姓半六伜長松、藤十郎伜林藏・吉兵衛伜巳之吉右三人未明ニ持府船三艘ニ而居村ゟ東之方江十三丁程隔字ミツナシ当(と)申處江罷越稼居候處、末風ニ而遠沖ニ大船壹艘〓去候間、日本船当存働居候處、俄ニ橋船相下ケ候節当朝五ツ半時頃ニ御座候等当見居候處、三本檣異國船ニ而橋船江十人餘も乘組候様子ニ付驚入、早速私共ヘ右之趣申聞候間、其段御訴当奉存飛脚等手配仕居間も無御座、居村地方近く橋船参候間、長右衛門・甚之助両人態飛脚ニ而御訴奉申上候處、無程橋船居村下江付上陸仕候間、一同恐怖仕戸締等いたし一所ニ打寄見届居候處、最初拾人餘乘組候様子ニ見請候得共、全て六人ニ而頭躰之者壹人白き短毛之革笠冠リ、黒羅紗様之筒袖廣き股引様之品着し居候、筒袖襟ほたん相外れ居候處懷中に壹尺餘之短筒壹挺相見申候、尤身丈五尺八九寸位当見請候、外五人者頭躰ニ見候者ゟ背低く候間、白黒赤皮羽様之筒袖着用、廣キ股引青色之丸頭巾冠リ、右之内壹人頭巾脱候而小刀様之品取出候、髪はサンキリニ候、猶壹人は四五寸茂有之候刃物ニ而髭剃居候儀ニ相見候、且右之内下人当覺しき者壹人有之候、乘參引揚置候橋船之義は凡長三尋餘ニも可有候哉、橋船之内遠見仕候處武器様之物も無之、小樽壹ツ相見得候外ニ何品ニ而も無之様見請候、頭軀之者壹人は村端迄貳丁程之處往返いたし候間一同心配仕、若亂妨等いたし候様も可有之哉当遙跡江隔御百姓十人付参り候得は、無程残り居候五人之者共之處江立戻リ一所ニ相成候ニ付見届居候處、波打際小高き所ニ而煙草飲候而何歟咄合いたし居候、其内頭躰之者は懐中ゟ小刀様之物取出し髭剃居晝九時頃迄罷在、夫ゟ陸江引揚置候、橋船相下ケ不残乗組居村ゟ凡二十丁程隔西之方字ヤチリ濱当申所ヘ海岸通り漕行候間、又々上陸いたし候哉も難斗見届居候處、居村地方ゟ三十丁程沖合有之候元船江直様漕戻乘移巳午之方ヘ向〓去候、其節は晝九時過当覺候、船嵩之義日本船ニ見競候得ば凡千六七百石位ニモ可有御座哉、船服(腹)(ママ)左右白黒染分ケ候様相見候、三本檣ニ而帆九枚相懸、表之方矢帆様之もの貳枚艫之方ニ同様壹枚相見申候、且沖ゟ〓参り候節は檣其外江赤キ小幡様之もの相見候處、橋船相下ケ候頃ニは右小幡取卸し候趣昆布取之者共ゟ申聞候、歸帆之節は薄黒キ帆様之物一流艫之方檣ヘ相下ケ候船、出入共鐵砲之音無御座候、右出帆いたし候ニ付、居村ゟ一里程隔根田内領字イソヤ当申處遠見差出候處、夕八半時頃追々遠洋江〓去帆形相見不申趣注進有之候ニ付、夕七時頃村繼ニ而御訴申上候、猶又今未明ゟヱサシ(ママ)山江遠見付置候得共、近邊之遠洋ニ怪敷船形等一切相見得不申旨申上候處、異國人暫く上陸いたし候ニ付村内之者共何歟差遣し候品等無之哉、猶又貰請候品無之候哉、有躰可申上旨再應御尋御座候得共、貰請候品は勿論此方ゟ差遣し候品等一切無御座候、兼而嚴敷被仰渡候義も御座ニ付、萬一異國人取落候品も無之哉当上陸いたし候後相改候得共差置候品も無御座候。
  右之趣再應御尋ニ付有躰不包奉申上候
   天保三辰年七月                              已之松印
                                        半六印
                                        半左衛門印
                                        由五郎印
 
 天保三年七月トトホッケへ異人上陸の文章は松前藩から幕府へ提出された文章であり、事件の状況を大へん詳しく記述しているが、難解であるので現代のわかりやすい文章にしてみると次のようになる。
 
 天保三年七月二十一日、東部箱館在の六ヶ場所トトホッケに外国人六人が上陸したが、その日のうちに退去した。この事について土地の者達が箱館の役所(松前藩出先の役所)に注進した。そこでこの事件について村人を取調べた口書を付けて、(松前藩主より幕府に対して外国船来航の顚末を記した)届書が出された。
 天保三年七月二十五日 松前志摩守御届
 私領(松前志摩守領)東部箱館在六ヵ場所の内トトホッケという所の沖合へ去る二十一日朝五ツ時(午前八時)頃、異国船一隻が来航した。橋船(ハシブネ)(大船に積んでいる小型船)で異国人が二十六人(後述されるように、正確には六人)トドホッケ領に上陸したため、土地の者達は、直ちに箱館に配置している家来に連絡してきました。このため早速、箱館から守備の人数を出動させた旨、私の所(松前藩主)に知らせがあったので、すぐに予備の兵力を派遣する手配を致しておりました処、同日九ツ(昼の十二時)頃トトホッケに上陸した異国人は(沖に停中)元船に乗移り出航し、次第に帆型さえ見えなくなりました。
 この異国船来航の顚末(てんまつ)について関係者より役人が取り調べましたが、その書面が今日二十五日、私の居所(松前藩主)に届きましたので、この取調書を添えてこの事件について御報告申し上げます。
                                        以上
        七月廿五日                          松前志摩守
                                  椴法花 小頭 由五郎
                                     (當辰五十二歳)
                                     年寄 半左衛門
                                     (當辰五十六歳)
                                     惣百姓代 半六
                                     (當辰五十七歳)
                                       同 己之松
                                     (當辰四十二歳)
 
 七月二十一日、椴法華場所の沖え異国船が来航し、小船にて異国人が上陸した時の様子を有りのまま包みかくさず申し述べるように取り調べ致しました。
 去る二十一日、当所(椴法華)百姓(江戸時代は農民ばかりでなく漁民も含まれていた)半六の息子長松・藤十郎の息子林藏・吉兵衛の息子已之吉、右三人のものは夜明前に持府船三艘で椴法華村より東の方へ十三丁(千四百メートル)ほどはなれたミツナシへ行き稼いでおりましたところ、西風ではるか沖合を大船が一艘帆走しておりましたが、日本船と思い気にもかけずにおりました。
 ところが急に小船を下し、朝五ツ半時(午前九時)頃と思われますが、三本柱の異国船より小船に十人あまりの人数が乗込んだ様子にたいへん驚きました。この者達は早速私共(村役)へ事の次第を報告してきましたが、この事について(箱館の御役所)お知らせすべく飛脚等の手配をする間もなく、椴法華の村近くに小船がきましたので、長右衛門・甚之助の両人を飛脚のかわりに御報告させるように致しました。
 ほどなく小船は椴法華村の海岸に付き異国人が上陸しました。このため村民は異国人を恐れて戸締りなどを致し、一か所に集まって異国人についてよく見ておりました。最初十人余り乗組んでいるように思われましたが、全部で六人でした。指揮者風の者一人、白の短毛の笠(帽子)をかぶり、黒のらしゃの筒袖(洋服)広い巾の股引様の品(ズボン)を着用していました。洋服のえりのボタンは、はずれており、懐(かい)中に一尺(三十センチ)ばかりの短筒(ピストル)が見えました。
 身長は五尺八寸(百七十四-百七十七センチ)位と見られ、他の五人は指揮者風の者より背丈が低く、白・黒・赤の皮羽様(なめし皮のような)洋服を着用し、広い巾のズボンを着用し、青色の頭巾(かぶりもの)をかぶっていました。この中の一人は頭巾をぬぎ小刀様の品(カミソリ)を取出し、髪をザンギリ(斬髪(ざんぱつ))にしました。なおもう一人は四・五寸(十二―十五センチ)位の刃物でひげをそっているように見られ、またこの六人の中に下人(下働風の者)と思われる者が一人いました。指揮者風の一人は村の端まで二丁(二百二十メートル)ほどの所を往復しましたが、乱暴等の行動があるのではないかと心配いたし、この間百姓十人にはるか後より付けさせました。この者はいくばくもなく残っていた五人の者達の所に立戻ったことを見届けました。
 この者は波打際の小高い所でタバコを飲み何事か話し合っていましたが、そのうち指揮者風の者は、ふところより小刀様の物を取出し、髭剃をはじめ九時(昼の十二時)頃までここにおりました。
 その後陸に引揚げて置いた小船を海へ下し残らず乗込み、ここより二十丁ほど(二千二百メートル)西の方字ヤヂリ浜と申す所へ海岸にそって漕いで行き、又々上陸するのではないかと見届けておりましたところ、椴法華村より三十丁ほど沖合に停船していた本船に乗移り己午の方(南々東)へ向け出帆しました。その時は昼の十二時過ぎ頃と覚えております。
 船の石数は日本船にして、凡千六・七百石位であろうかと思われます。船腹の左右は白・黒に染め分けているように見られ、三本柱に帆九枚を備え、船首の方には矢帆の様なものを二枚、船尾の方には同様の帆一枚を付けているのが見聞されました。また沖の方から風が吹いてきた時、帆柱に赤い小旗の様なものが見られましたが、橋船を下す頃にはこの小旗は取り下ろされていたと昆布取の者達は申しております。帰帆の時には薄黒い帆の様な物を船尾より下げており、船の出入には鉄砲の音などは致しませんでした。
 この船が出帆いたしましたので、椴法華村より一里(四キロメートル)ほどはなれた根田内領字イソヤと申す所へ見張を差出したところ、夕方三時頃次第に遠洋に出、帆型すら見えなくなったと知らせがあり、夕方午後四時頃、村継により、(箱館のお役所)へ御報告申し上げました。なお本日の夜明けより恵山に見張を置きましたが、周辺の沖合には怪しい船影等一切発見できなかった事も御報告申し上げます。
 異国人が上陸しましたので、村内の者で何か与えたものはないか、また何か貰った物はないか、有りのまま話すように、再度お尋ねが有りましたが、貰った物はもちろん、村人が与えた物など一切ございません。
 かねてよりの厳しい御命令もありますので万一異国人が取り落した品物などないか、調べましたが、そのような品物など一切ございませんでした。
 このようなお尋ねが再度ございましたが、有りのまま、包みかくさず申し述べさせていただきました。
 
 以上のように外国船が頻々と出没し、これに対し幕府は海防を益々厳重にするようになり、その結果、文化・文政頃より捕鯨その他を目的として、蝦夷地沿岸へ来航する欧米諸国の船は、薪水の補給に困難をきわめるようになり、関係諸国は強く我が国の開国を求め来航するようになったのである。