川汲台場

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 大正二年、尾札部村教育会が編纂した尾札部村郷土誌(原本所在不詳・その抜萃が木直小学校沿革誌に所載)をもとに記述された大正七年の函館支庁管内町村誌(北海道所蔵)に拠ると、明治元年、榎本軍は蝦夷地を占拠するとともに箱館五稜郭に本陣を置き、上磯・松前・江差方面と、戸井・恵山・尾札部・鷲ノ木・室蘭方面の警備を急造したとき「川汲嶺の頂上に(略)径二間に亘る凹所の中央に木製の砲架」を備えたという。これはのちのち台場山と呼ばれるようになる川汲山台場である。

川汲台場山

 このほか「川汲より温泉に至る途中尚二か所に台場あり」と記している。大正二年当時、戦争体験者である古老からの取材によるものだろう。
 小林年表には「川汲山道入口左側台地にも一か所小台場を築いた」と記している。川汲山道入口の小台場、いわゆる浜台場のことであり、町村誌に記す二つの台場のひとつである。
 川汲峠の台場は、沿岸伝いに川汲峠越えして五稜郭に攻め入った土方隊の戦いの記述があるが、蝦夷地三嶮の一つといわれ、当時は敵も味方も守るに易く、攻めるに難い天然の要害として、主流ではないが、戦略上重要な拠点のひとつとされていた。
 このため榎本軍は、守備を固めるために諸々に台場や砦を急ごしらえしていくなかで、川汲峠も台場構築の一つとなり、郷土の村人は使役のため大勢徴用され、冬の厳しい山頂で砲塁台場の築設工事にしたがったのである。
 昭和四二年、小林露竹編「南茅部町史年表」には、次のように記している。
 
   明治元年一一月 榎本軍土方隊川汲峠に砲台築造す。
   台場は川汲峠山上海抜五〇〇メートルに更に一〇メートルの土盛、この上に高さ二メートルの堤を直径六メートルの円形に巡らし、中央凹所に砲架を設け、青銅製大砲四門を備えた。そして山上から四辺の森林を伐採して展望を広くし、遙かに箱館山を望み、後方太平洋をほしいままに眺め得るようにした。之に要した人夫雑役は、臼尻川汲尾札部・木直より徴用した約一〇〇名で、一一月上旬より翌二年四月上旬竣工まで、冬季極寒大雪期(約二か月)を除いた外懸命に工事を急いだ。外に川汲山道入口左側台地にも一か所小台場を築いた。

土方隊川汲峠越進撃図