南柯紀行に「四月五日午頃、官軍艦五隻青森港ヨリ出デ相続キテ箱館山ノ後ニ回リシニ依リ、何レモ海岸防禦ノ備ヲ為シ、敵艦多分鷲ノ木へ回ルベシト察シケレバ、鷲ノ木竝二河汲へ(略)宮古港ニテ已二兵端(へいたん)開ケン上ハ不日官軍渡海ニ為ルベシト此ヲ注進シタリ。然ルニ右軍艦忽チ方向ヲ転ジ乗返シ内地ノ海岸ニ迎ヒ」とある。
官軍の艦船は必ず茅部鷲ノ木海岸を攻撃して、ここに上陸してくるだろうと予測していた。
ときに郷土の海岸の村々は、住民の不安が一層大きく揺れていた。
権利もない、武力もない、主食の徴発は有無をいわさず、生命の保障は何もない。生産のため海を出ることも畑で耕すことも出来ない。武器をもたない村人たちは、戦乱にまきこまれないように道なき山間に逃げかくれするだけの術しかない日々がつづいた。
戦乱のときの百姓平民は、時代の変革の中でただおろおろするばかりであった。
官軍甲鉄艦乗組の軍監前田雅楽が明治二年四月一九日付の報告書に、「海軍、本月十六日午前十一時より三馬屋発港 賊ヲ欺カンタメ鷲ノ木ニ進撃ノ模様ヲ顕シ、箱館ヨリ恵山岬巡航仕、同夜密カニ三厩ニ帰港シ」とある。
明治二年五月 榎本軍土方隊川汲峠に官軍小隊と戦闘撃退す。
官軍小隊は湯川亀尾を経て野田郡・一本木に陣し、台場山を窺う。五月十日頃夜陰斥候七、八名ひそかに峠を越えて川汲渓谷に迷うを、黎明に至り山道警備の細川隊員発見して銃撃す。この銃声に山上・山下共に戦闘に入る。官軍も又斥候兵の苦戦を知って、山上峠を避けて約三〇名東方林中を抜けて照楓坂上に現れるや、細川隊下より急襲、角田隊大砲を放つも余りに近く、味方を損ずるを恐れて只空砲を放って敵を威嚇した。官兵全く包囲の状態となったが、その銃器は秀れていたので威力衰えず、次第に峠に退いた。茲に再び両軍乱戦して彼我の死傷十余名を算え、官軍は力及ばずとして野田部陣所へ走り下った。この戦は意外に時間を要して終ったのは既に日は西に傾いて、散り残る山つつじはわびしく渓に伏していたと伝える。
(小林露竹編「南茅部町史年表」)
明治二年五月一八日 五稜郭落城榎本軍降伏す(箱館戦争終結)
官軍大挙進攻して榎本軍はその猛撃にたえ得ず、遂に五稜郭を開城降伏した。この戦争終結による川汲台場の守兵も引き揚げたが、なかには行方不明の者、残留傷病者中温泉湯治の者、箱館にて民家に雇われ、のちに養子となったり種々である。又、川汲台場は官軍により砲身が撤収され、七月頃、漸く郷土は平穏となり、昆布採りに着手したという。
慶応四戊辰年(一八六八)正月三日、鳥羽伏見の戦火以来、国中を揺るがせ、変革する勢いと死守する勢いとの日本史上最大の内乱は、五稜郭の落城、降伏によって二年五ヵ月にして勤皇方(官軍)の勝利のうちに終幕した。
箱館戦争に敗れて敗軍の主謀者として捕えられた榎本武揚(釜次郎)らは、朝敵賊軍の汚名のもと東京に護送され獄にあったが、その逸材を惜しまれて黒田清隆の並々ならぬ助命嘆願により極刑を免れ、明治五年、北海道開拓使の用向として新しく再出発をした。
このときの榎本の手記が「北海道巡遊日記」として国会図書館に所蔵されていて、この写本が市立函館図書館にある。