駒ヶ岳噴火災害と昆布礁の復旧

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 大正から昭和の初めは、郷土の漁業が最も盛んになる時期である。
 昆布が揚がり、鱈釣りは発動機船に替わる。鮪がくる。鰮が回遊する。鰮の巻網は郷土の全盛期を展開する。そしてイカ漁が次第に主要な漁業に変わってきた。
 昭和四年六月、郷土は駒ヶ岳の大噴火に被災する。天を暗くした降灰と、降り積る火山礫に、郷土の山野は一日にして緑を失い、海まで礫に埋まった。
 鹿部方面から避難して来る人、翌日は津波のデマが伝わり、裏山に避難した。昆布採り直前の出来事だった。
衝撃は大きく、昆布生産への憂慮は大きかった。
 村役場も漁業組合も道庁も、この大災害の救援や実態調査と、そして復旧計画などに没頭した(駒ヶ岳噴火災害参照)。鹿部から日浦までの海区の昆布礁が罹災した。

昆布礁の被害面積

 
  海産乾場の被害
   鹿部村   一八、〇〇〇坪
   臼尻村   四五、〇〇〇坪
   尾札部村  三六、〇〇〇坪
 
 この復旧のため、未曽有の国費が投入される。噴火災害昆布礁復旧計画は、新たな岩礁造成のため、投石事業と海底岩盤の破砕事業がすすめられた。

昆布礁復旧費、所要額一、二七〇、〇〇九円(雑費を除く)

 
 この要求に対し、復旧面積は三〇七、八三五坪に査定され、総工費は一、一五四、三八一円と決定され、うち五割が国庫補助五七七、一九〇円、低利資金貸付が三〇〇、〇〇〇円で、残額二七七、一九一円を地元の労力負担でおこなった。
 災害による昆布の損害は、被災の年の翌昭和五年の生産高にきびしくあらわれた。
 しかし、投石事業も岩盤破砕も効果をあらわし、真昆布昆布礁は、生産高において三、四年後には復調した効果をみせるまでに増殖されていく。
 当時、道庁から村々に派遣されていた水産技術員たちが、昆布礁復旧の調査から実施まで尽力した。村役場や漁業組合が挙げて世紀の大事業を完成させた。

岩盤破砕 尾札部


投石用石材の積込み 臼尻

  道庁派遣の技術員        (昭和四〇年六月 現職)
鹿部村   技術員 青 木 三 郎
鹿部村   技術員 小 林 信 三(道水産部長)
臼尻村   技術員 仲 吉 朝 斌(福島県豊前水産試験場長)
尾札部村  技術員 谷 口 達 三(道立水族館長)
椴法華村  技術員 村 井 徳 吉(開発庁技師)
渡島支庁  技 手 中 川 一 雄(道水産部製品課長)
尻岸内村  技術員 高 木   信(高知大学講師)
 
 船入澗(漁港の始め)の築港工事が着手され、昭和九年、鹿部、尾札部・翌一〇年に臼尻船入澗が竣工をみた。昭和一〇年、漁業組合は、無限責任の漁業協同組合として改組している。昭和一一年、大沼電鉄鹿部駅前広場に昆布礁復旧の記念碑が建立され、六月二七日にその除幕式を挙げた。
 碑は、のち鹿部稲荷神社境内に遷され、昭和六一年、鹿部町の公園に移設された。

昆布礁復旧記念碑


碑文(裏面)

  碑文  昆布礁復舊記念碑
  揮毫  北海道廳長官 佐上信一 書
 
  昭和四年六月駒ヶ嶽爆發シ 海陸ノ惨害一町七箇村ニ及ビ殊ニ昆布礁ノ被害甚シ 各漁業組合協力九十二萬餘圓ヲ投シ七万餘人ヲ使役シ 二十八萬餘坪ヲ復興シ 昆布生産舊ニ勝ルニ到レリ 依テ玆ニ相謀リ 永ク之ヲ記念シ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十年 六月
     鹿部村 臼尻 尾札部
     椴法華村    根田内 漁業組合
     古武井 尻岸内 日 浦