戦後の昆布市場

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 戦後昭和二四年、戦時の経済統制が解除され、自由経済が復活した。
 このとし大阪昆友会が結成された。昭和二七年、兵庫県昆親会、翌二八年、京都昆商会が結成、昆布市場は活況に向かう兆しがあらわれる。
 昭和二九年、関西各昆布業界代表と北海道漁連との間に、昆布の集荷と価格の正常化を図るために協議がおこなわれた。北海道昆布共販連絡協議会が設立され、昆布の販売に当たり共販制が発足した。
 以来、昆布の共販制は、漁協と組合員の結び付きを強め、他の海産物の組合一元集荷に対しても大きな役割を果たすことになる。
 昭和三一年、神武景気に昆布は総体的に異常な高値となった。
 昭和三二年はナベ底不況といわれる影響で、昆布市場も流通が低滞した。
 昭和三三年、映画「のれん」が人気を集める。昆布も貫・石かりkg制(キロ建制)が実施される。
 昭和三五年、道南昆布販売組合が結成された。
 この年、日高コンブの市場への促進を図るため、阪神日高組合が発足している。
 昭和三六年、道昆布共販連絡協議会が、北海道昆布共販協会に改組となる。
 この年、近畿昆布協会が設立した。
 昭和三八年、道南銘柄が豊作。
 昭和三九年、北海道漁連が整促達成となり、漁業資金の融資についても健全運営期に入る。
 昭和四二年、等級掛目の改訂があり、値決め交渉は難行した。
 道南雑・ガゴメ・細目・根室厚葉など不況カルテル組合が続出した。
 昭和四三年、大量の繰越滞荷で昆布市況は低迷した。
 昭和四四年、ソ連昆布の輸入を反対する産地の人たちが、札幌で昆布需給会議を開き、全道規模の養殖事業を展開していく。
 昭和四五年、北海道漁連内部のトラブルが相乗して、昆布は異常な高値を現出した。
 昭和四〇年、ソ連産昆布輸入促進協議会が設立した。昆布市場に大きな波紋をもたらした。
 昭和四七年、中国産昆布の輸入が実現した。日本昆布協会が設立される。
 昭和四八年、石油ショックがあった。養殖促進事業が軌道に乗り、生産量一〇〇〇トンを突破した。
 昭和四九年、道東の流氷被害のため、道南促成昆布に一〇億円のテコ資金を緊急融資。
 昭和五一年、道南昆布販売組合を解散。この道南ものの受皿として「道南荷受組合」が再出発する。
 昭和五二年、大阪地区の専業四社による大阪荷受組合が設立される。
 昭和五三年、消費の低迷状態が続き、大阪昆布荷受組合が、豊作の尾札部川汲を買付けて波紋を投じた。
 この年、韓国産昆布の輸入が大きく報道される。
 昭和五五年、品薄となった大衆向け昆布原藻市場に、中国産昆布二、〇〇〇トンが緊急輸入される。
 この年は天候不順のため新昆布の出回りが遅れ、記録的な高値が示された。
 昭和五六年、道営の水産物検査から、民間検査へ移管される。社団法人北海道水産物検査協会が設立される。

マコンブ生産推移 「マコンブの増殖に関する試験」第2報(昭和56年)